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http://www.wangf.net/data/articles/d07/209.html

有关突厥史的部分日文书籍

老冷

近因参加Togan教授主持的古突厥文碑铭研读班,注意收集有关研究资料。现在先把已知的日文资料迻录于后,聊备参考。

★ 北アジア史(新版) 护雅夫・神田信夫編, 山川出版社

1) 北アジア史(新版) 护雅夫・神田信夫编, 山川出版社

序说 护 雅夫

第一章 シベリア・モンゴルの古代文化 加藤九祚

第一节 シベリアの石器文化

第二节 モンゴル

第三节 南シベリアの青铜器文化

第二章 游牧国家の成立と発展护 雅夫

第一节 匈奴の游牧国家

第二节 鲜卑・柔然の游牧国家

第三章 游牧国家の「文明化」 护 雅夫

第一节 突厥の游牧国家

第二节 ウイグルの游牧国家

第四章 モンゴルの统一 冈田英弘

第一节 モンゴルの兴起

第二节 モンゴル帝国

第三节 大元帝国

第五章 モンゴルの分裂 冈田英弘

第一节 元朝の衰亡

第二节 モンゴルの复兴

第三节 清代のモンゴル

第六章 现代のモンゴル 坂本是忠

第一节 モンゴルの独立运动

第二节 モンゴル人民共和国の発展

第三节 内モンゴル自治运动の変迁

第四节 内外モンゴルの周辺

第七章 満洲における国家の成立 神田信夫

第一节 ツングース系民族の兴起

第二节 渤海の兴亡

第八章 女真民族の発展 神田信夫・松村润

第一节 金・元・明の満洲

第二节 清朝の勃兴

第三节 清代の満洲

第九章 ロシア进出以前のシベリア诸民族加藤九祚

(12-19-2004 06:02 PM)

【老冷】

ウイグル=マニ教史の研究

森安孝夫,大阪大学文学部纪要 第31・32巻

第1章ベゼクリク千仏洞中のマニ教寺院

第1节 小序

第2节 仏教=マニ教二重窟の発见と调査

第3节 グリュンヴェーデル第25窟の构造

第4节 グリュンヴェーデル第25窟=マニ教窟说の検证

第5节 正面壁画の主题に关する従来の说

第6节 ウイグル语铭文よりの検讨

第7节 生命の树

第8节 その他のマニ教窟

第9节 歴史的考察(壁画年代论への寄与) 第2章トゥルファン出土マニ教寺院経営令规文书

第1节 概観

第2节 マニ教寺院経営令规文书:テキストと和訳

第3节 マニ教寺院経営令规文书:语注

语注索引

语汇索引

第3章西ウイグル王国におけるマニ教の繁栄と衰退

-マニ教寺院経営令规文书の歴史的位置付け-

第1节 マニ教寺院経営令规文书の性格

第2节 令规文书の上限:ソルミ(Solmi)问题

第3节 トゥルファン・敦煌文书に反映する西ウイグルのマニ教

第4节 令规文书の下限:マニ教の衰退と仏教の台头

第5节 イスラム史料の伝える西ウイグルのマニ教

おわりに

补注

付録

1.东ウイグル可汗および西ウイグル国王のクロノロジー

2.京都大学文学部所蔵トゥルファン出土マニ教徒祈愿文断简

(3.北京図书馆所蔵敦煌出土マニ教僧手纸文断简(冬61ウラ) 12-19-2004 06:07 PM)

【老冷】

古代トルコ民族史研究 I 护 雅夫, 山川出版社

序文

凡例

第一编 突厥の国家と社会

第一章 突厥の国家构造

第二章 东突厥国家内部におけるソグド人

第三章 古代テュルクの社会构造

第四章 突厥と隋・唐両王朝

第二编 突厥第一帝国における官称号の研究

第一章 突厥第一帝国におけるqaγan号の研究

第二章 突厥第一帝国におけるsad号の研究

第三章 铁勒诸部におけるeltabar、irkin号の研究

第三编 突厥碑文箚记

第一章 突厥の启民可汗の上表文の文章

第二章 siciと四至

第三章 契丹の语源について

第四章 イェニセイ碑文に见えるqu(o?)y、oz 両语の意义

付编

[一] エス=ゲー=クリャシュトルヌィの突厥史研究

[二] 刘茂才の突厥史研究

[三] べー=オゲルのsad号研究

[四] エス=イェー=マーロフのイェニセイ碑文研究

古代トルコ民族史研究 II 护 雅夫, 山川出版社

序文

凡例

総论

第一节 北アジアにおける古代游牧国家の构造

第二节 突厥の国家构造

第一章 古代テュルク民族史上の诸问题

第一节 bogu(bugu)-qaγan と匐倶

第二节 Tonyuquq碑文に见える bogu-、 (bugu)-qaγanについて

第三节 阿史徳元珍とTonyuquq 第四节 突厥第二可汗国における「ナショナリズム」

第五节 いわゆるbokliについて -民族学と歴史学のあいだ-

第六节 スージ碑文の一解釈 -最初の三行について-

第七节 モンゴル高原出土の五铢銭の突厥文字铭文について

第八节 いわゆるテュルギシュの铜銭の铭文について

第九节 突厥可汗国内部におけるソグド人の役割に关する一资料 -ブグド碑文-

第十节 ソグド人の东方発展に关する考古学的一资料

第二章 古代テュルク民族の信仰

第一节 突厥の信仰 -シャマニズムについて-

第二节 游牧国家における「王権神授」という考え -突厥の场合-

第三节 古代一テュルク部族(高车)の始祖伝说について -イオマンテの研究によせて-

第四节 古代テュルク人における「狼头の神」について

第五节 「苍き狼」神话をめぐって

第六节 突厥における君主観

第七节 突厥の即位仪礼

第八节 突厥の即位仪礼补论

第三章 イェニセイ铭文箚记

第一节 イェニセイ铭文に见える "sakiz adaqliγ barim"について

第二节 アルトゥン-キョル第一铭文考釈

第三节 アルトゥン-キョル第二铭文考釈

付编 批评と绍介

一 A=イナン着『歴史上の、および现在のシャマニズム-资料と研究-』

二 I=ラウデ=ツィルタウタス着『テュルク诸方言における色彩呼称の用法』

三 S=G=クリャシュトールヌィ、V=A=リフシツ共着「セヴレイ石碑」

四 S=G=クリャシュトールヌィ着「东ゴビのルーン文字铭文」

五 S=G=クリャシュトールヌィ、I=U=サンブ共着「ウルグ-ヘム地域における新発见のルーン文字铭文」

六 A=N=コノノフ総编集、S=G=クリャシュトールヌィ责任编集、I=G=ドブロドモフ、E=R=テェニシェフ监修、D=D=ワシリエフ着『イェニセイ川流域テュルク-ルーン文字记念物集成』

七 A=ローナ-タス着「东テュルク『ルーン』文字の発展と起源とについて」

八 突厥文字の起源に关する二研究九 S=G=クリャシュトールヌィ着「古代テュルク语资料に见られる神话体系の主题」

古代トルコ民族史研究 III 护 雅夫, 山川出版社

序文に代えて

凡例

総论 古代北アジア游牧国家史概観はじめに

第一节 游牧国家の成立と発展 ·

第一项 匈奴の游牧国家 ·

第二项 鲜卑・柔然の游牧国家

第二节 游牧国家の「文明化」 ·

第一项 突厥の游牧国家 ·

第二项 ウイグルの游牧国家

第一章 古代北アジア史上の诸问题

第一节 古代东アジアにおける游牧国家と农耕国家

第二节 「匈奴」の国家 -その予备的考察-

第三节 プリツァク「二四大臣 -匈奴国家の统治机构史の研究-」について

第四节 「马弩关と匈奴の石器文化」について

第五节 南シベリアにおける汉代の建筑址

第六节 南シベリアイェニセイ河流域の原住民 -ソヴェート连邦における通说について-

第七节 丁令に关する『魏略』西戎伝の记事について

第八节 いわゆる「北丁令」「西丁令」について

第九节 高车伝にみえる诸氏族名について -高车诸氏族の分布-

第一〇节「度斤旧镇」小考 -北魏の北辺-

第二章 ウイグル文书诸论

第一节 ウイグル文消费贷借文书

第二节 ふたたびウイグル文消费贷借文书について

第三节 ウイグル文葡萄园売渡文书

第四节 ウイグル文売买文书 -とくに売主と买主について-

第五节 ウイグル文売买文书に于ける売买担保文书

第六节 元代ウイグル土地売买文书一通

第七节 ウイグル语訳金光明最胜王経

(12-19-2004 06:23 PM)

【老冷】

唐の北方问题と国际秩序

石见清裕, 汲古书院

目次:

导言

一 隋唐史研究に求められる视座

二 そうした视座から発生する诸问题

三 本书の构想

第I部 唐の建国と北方问题

第一章 唐の建国と匈奴の费也头

はじめに

一 太原起兵と三王子の河西封建

二 『新唐书』窦氏世系表批判

三 太穆皇后と匈奴の费也头

四 李渊入关とオルドスの匈奴费也头

むすび

第二章 玄武门の変前夜の突厥问题

はじめに

一 玄武门の変についての先学の诸说

二 史料批判によって现れた突厥问题

三 武徳九年六月のクーデターの意味

むすび

第三章 突厥の杨正道拥立と第一帝国の解体

はじめに

一 突厥の杨正道拥立

二 定襄亡命政府の开置と突厥の意図

三 义城公主の强行路线と突利、郁射设の离反

四 后日谭むすび

第四章 唐の突厥遗民に対する措置

はじめに

一 定襄・云中両都督府の设置年代と六州问题

二 突厥降戸と开元戸部格残巻

三 降戸と蕃戸

むすび

第五章 唐の内附异民族対象规定

はじめに

一 羁縻州と赋役负担

二 唐令异民族対象规定の解釈

1 「寛郷附贯、复一〇年」の対象者

2 「招慰、复三年」の対象者

3 丁税银銭と输羊规定

むすび

第II部 新出土史料より见た唐代テュルク人の存在形态

第一章 开元十一年「阿史那施墓志」

はじめに

一 志文訳注[釈文・训読・语釈・口语訳] 附「阿史那哲墓志」

二 阿史那氏の系谱と墓主の位置

三 志文所引『大唐実録』について

むすび 第二章 天宝三载「九姓突厥契ヒツ李中郎墓志」

はじめに

一 志文訳注[釈文・训読・语釈・口语訳] 二 「九姓突厥」と契ヒツ部

三 墓主をめぐって-むすびに-

第三章 开元十二年「阿史那毘伽特勤墓志」

はじめに

一 釈文

二 训読

三 语釈

四 口语訳

むすび-墓主と羁縻政策・撰者について

第III部 唐の朝贡外交使节の待遇

第一章 辺境州県における朝贡使节の待遇

はじめに

一 辺境待遇规定拾遗

二 日本遣唐使の帰朝报告から见た辺境での待遇

三 円仁の伝えた杨州での遣唐使处遇

むすびにかえて-附・参考史料-

第二章 交雑の禁止-朝贡使节の入京途上规定-

はじめに

一 駅伝・通关・程粮-『新唐书』百官志の记事より-

二 交雑-在路における禁止行为-

三 交雑禁止の背景-むすびにかえて-

第三章 鸿胪寺と迎宾馆

はじめに

一 鸿胪客馆の地理的位置

二 宾礼に见える鸿胪客馆

三 鸿胪寺典客署と客馆管理

四 蕃客接待の诸规定

五 礼宾院

むすび

第四章 蕃望について

はじめに

一 蕃望规定の基础史料

二 新志鸿胪寺の记事と蕃客の席次

三 蕃望の机能とその端绪

四 新志礼部主客郎中の记事と食料问题

むすび

第五章 外国使节の皇帝谒见仪式复元

はじめに

一 「蕃主奉见」仪式注釈

二 蕃使の谒见をめぐって

三 宫悬の位置

むすび-国书と贡物-

第六章 外国使节の宴会仪礼

はじめに

一 宴会仪礼注釈

1 「皇帝宴蕃国主」仪礼

2 「皇帝宴蕃国使」仪礼

二 解釈上の问题点

1 両宴会仪礼の式次第の差异-贽・币献上の问题-

2 音楽

3 廊下について

三 宴会の背后-酒食と赐物・むすびにかえて-

付章 唐代外国贸易・在留外国人をめぐる诸问题

はじめに

一 朝贡使节と唐の贸易管理

二 唐の法令と在留外国人の诸形态

三 魏晋~隋唐期の北辺地帯-むすびにかえて-

まとめ

あとがき

(12-19-2004 06:33 PM)

【老冷】

岩佐精一郎遗稿

目次

序に代えて

凡例

目次:

著者略歴

著作目録

一 饕餮传说に就いて

二 节度使の起原

三 河西节度使の起原に就いて

四 唐宪宗朝に于ける飞銭禁止の理由に就いて

五 古突厥碑文の Bokli 及び Par Purm に就いて

六 突厥の复兴に就いて

七 突厥毘伽可汗碑文の纪年

八 唐代ソグド城塞の发掘と出土文书

九 唐代粟特城塞之发掘及其出土文书

十 元代の和林

(12-19-2004 06:39 PM)

【老冷】

ユーラシア游牧社会の歴史と现在

国立民族学博物馆研究报告别册20号

松原正毅・小长谷有纪・佐々木史郎 编

国立民族学博物馆平成11年3月発行

目次:

はじめに 松原正毅・小长谷有纪・佐々木史郎

チンギス・カン家の通婚关系に见られる対称的婚姻縁组 宇野伸浩

タルバガン、野に満ちし顷-文献より见たタルバガン- 原山 煌

モンゴルにおける「白いスゥルデ」の継承と祭祀 杨 海英

ト・ワンの教え」について-19世纪ハルハ・モンゴルにおける游牧生活の教训书- 萩原 守

圣者の墓を见つける话 滨田正美

新疆イリ川流域のソグド语铭文石人について-突厥初世の王统に关する一资料- 大泽 孝

ワリハーノフのキルギス研究 泽田 稔

天山北麓の故城迹 堀 直

游牧の文化的特质についての试论-西南アジア游牧民を中心として- 松井 健

トナカイ多头饲育の生产性 佐々木史郎

レーニン・トナカイと个人トナカイの间で-东シベリア・ベルホヤンスク地域における家畜トナカイの分类・识别所有をめぐる考察-

高仓浩树

(12-19-2004 06:46 PM)

【老冷】

松田寿男著作集2『游牧民の歴史』

松田寿男, 六兴出版

目次:

I 游牧民の歴史

匈奴およびその类族の迭兴

II 匈奴の僮仆都尉と西域三十六国

绢马交易覚书

绢马交易に关する史料

古代漠北における农耕の问题

高车独立年代考

アルタイ山とエフタル族

突厥勃兴史论

铁工としての突厥族の発展

III 东亜游牧民と国际贸易

游牧生活とオアシス农耕

シベリア史论

貂皮贸易と游牧民

大人考

北アジア

(12-19-2004 06:55 PM)

【石头记】

老冷:

当我看到你的古突厥语碑铭文字与有关突厥史的部分日文书籍时感到惊喜;当我在突厥这一块天地独自摸索却苦于无法登堂入室时,当我屡遇磨难多遇险阻急于寻找彼岸的灯塔时,或是一种独行的孤单,一缕离群的惆怅,重重叠叠,挥之不去,然而那些引领潮流,追逐星族却引不起我的热情,依然地向往古突厥的木简,碑刻,虽然我还没有古突厥的一纸文凭。希望得到更多的帮助与鼓励,不甚感激。

我的电邮是:valewind@21cn.com 如果您有空,希望得到您的指点。

(01-07-2005 09:54 PM)

【飞霜】

查人名时无意中看到这个网站:

http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/index.htm 好像不错。老冷介绍的几本书这里也有目录。

参考資料

ここを作るときに参考にしたものです。

このほかに「突厥ファンならこれは落としてはいけない!!!」というものがありましたら、教えてください。

よろしくお願いします。

書名 著者名 出版社

通史・概説

騎馬民族史1

正史北狄伝 内田吟風・田村実造・河内良弘・護雅夫・神田信夫 訳注 平凡社

騎馬民族史2

正史北狄伝 佐口透・山田信夫・護雅夫 訳注 平凡社

騎馬民族史3

正史北狄伝 羽田明・佐藤長・萩原淳平・青木富太郎・岡崎精郎 訳注 平凡社

玄奘三蔵

西域・インド紀行 えりゅう・げんそう

長澤和俊 訳 講談社学術文庫

國譯資治通鑑 加藤 繁 公田連太郎 譯並註 國民文庫刊行會

マナス 少年篇 キルギス英雄叙事詩 若松 寛 訳 平凡社

世界各国史12

北アジア史(新版) 護雅夫・神田信夫 編 山川出版社

アジアの歴史と文化7

北アジア史 監修 竺沙雅章

責任編集 若松寛 同朋社

騎馬民族国家 改版

日本古代史へのアプローチ 江上波夫 中公新書

アジア遊牧民族史 ルネ・グルセ

後藤十三雄(後藤富男) 訳 山一書房

支那周邊史 下巻 愛宕松男・鴛淵一・内田吟風・石濱純太郎・宮崎市定・羽田明 白揚社

欧州殊に露西亜における東洋史研究 ワシーリー・バルトリド

外務省?#123;査部訳

中央アジア秘宝発掘記 アルベルト・フォン・ル・コック

木下龍也 訳 中公文庫

円仁 唐代中国への旅

『入唐求法巡礼行記』の研究 エドウィン・O・ライシャワー

田村完誓 訳 講談社学術文庫

古代遊牧国家 護 雅夫 中公新書

遊牧騎馬民族国家 護 雅夫 講談社現代新書

松田壽男著作集1 砂漠の文化 松田壽男 六興出版

松田壽男著作集2 遊牧民の歴史 松田壽男 六興出版

松田壽男著作集3 東西文化の交流I 松田壽男 六興出版

松田壽男著作集4 東西文化の交流II 松田壽男 六興出版

マニ教 ミシェル・タルデュー

大貫 隆・中野千?#123;美 訳 白水社 文庫クセジュ

マニ教とゾロアスター教 山本由美子 山川出版社

アウグスティヌス著作集7 マニ教駁論集 岡野昌雄 訳 教文館

ウイグル=マニ教史の研究 森安孝夫 大阪大学文学部紀要

異端の宗派ボゴミール ディミータル・アンゲロフ

寺島憲治 訳 恒文社

ゾロアスター教 神々への賛歌 岡田明憲 平河出版社

ゾロアスター教の悪魔払い 岡田明憲 平河出版社

ゾロアスターの神秘思想 岡田明憲 講談社現代新書

死後の世界 岡田明憲 講談社現代新書

ゾロアスター研究 伊藤義教 岩波書店

ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史 メアリー・ボイス

山本由美子訳 筑摩書房

ゾロアスター教論考 エミール・バンヴェニスト

ゲラルド・ニョリ

前田耕作 編・監訳 平凡社

ミトラの密儀 フランツ・キュモン

小川英雄 訳 平凡社

長安の春 石田幹之助 講談社学術文庫

図説モンゴル歴史紀行 松川 節 河出書房新社

モンゴル国現存遺蹟・碑文?#123;査研究報告 責任編集 森安孝夫・オチル 中央ユーラシア学研究会

北アジアにおける人と動物のあいだ 小長谷有紀 編 東方書店

忘れられた王国 ピーター・グーラート

高地アジア研究会 訳 恒文社

敦煌文書の世界 池田 温 名著刊行会

中国・新疆トルファン交河故城 城南区墓地の?#123;査研究 シルクロード学研究センター シルクロード学研究 Vol.10 世界の考古学6

中央ユーラシアの考古学 藤川繁彦 編 同成社

ウマ駆ける古代アジア 川又正智 講談社

乳酒の研究 越智猛夫 八坂書房

失われた文字の解読III エルンスト・ドーブルホーファー

矢島文夫・佐藤牧夫訳 山本書店

МОНГОЛ НУТАГ ДАХЬ

ТΥΥХ СОЁЛЫН ДУРСГАЛ N. Tsultem Mongolian Academy of Humanities MONGOLIAN SCULPTURE Ulan-Bator 専門書

古代トルコ民族史研究I 護 雅夫 山川出版社

古代トルコ民族史研究II 護 雅夫 山川出版社

古代トルコ民族史研究III 護 雅夫 山川出版社

西突厥史の研究 内藤みどり 早稲田大学出版会

古代天山の歴史地理学的研究 松田壽男 早稲田大学出版会

唐の北方問題と国際秩序 石見清裕 汲古書院

隋唐の国際秩序と東アジア 金子修一 名著刊行会

羽田博士史学論文集 上巻 歴史篇 羽田 亨 東洋史研究会(同朋社より再版)

羽田博士史学論文集 下巻 言語・宗教篇 羽田 亨 東洋史研究会(同朋社より再版)

古代チベット史研究 佐藤 長 東洋史研究会

フゥラン テプテル -チベット年代記- 稲葉正就 佐藤 長 共訳 法蔵館

チベットの言語と文化 長野泰彦 立川武蔵 編 冬樹社

ボン教・ラマ教史料による吐蕃の研究 光嶌 督 成文堂

吐蕃王国成立史研究 山口瑞鳳 岩波書店

西南中国民族史の研究

-南詔国の史的研究- 藤澤義美 (株)大安

華南文化史研究 白鳥芳郎 六興出版

王権の確立と授受 大原良通 汲古書院

Древнетюркские

рунические

памятники, как

источник по истоии

Средней азии С.Г.Кляшторный Moscow Древние тюрки Л. Н. Гумилёв Moscow Памятники

древнетюркской

письменности Монголии

и Киргизии С. Е. Малов Издательство

Академии Наук

СССР

DIE ALTTURKISCHEN INSCHRIFTEN DER MONGOLEI Band1:, Band2: von W. Radloff Центральная Азия

Новые памятники

письменности и

искуссттва Сборник статей ИЗДАТЕЛЬСТВО “НАУКА”

論文など

ゾロアスター教神秘主義思想の形成

-イスラーム神秘主義の影響とゾロアスター教の伝統- 青木健 東洋学報第84巻第2号 2002年9月27日発行 東洋文庫

唐帝國とソグド人の交易活動 荒川正晴 東洋史研究 第五十六巻第三号 平成9年12月 東洋史研究會

中央アジア地域における唐の交通運用について 荒川正晴 東洋史研究 第52巻第2号 平成5年9月30日 東洋史研究會

唐代河西の吐谷渾と墨離 荒川正晴 内陸アジア史研究 第3号 1986年3月 内陸アジア史学会

麹氏高昌国における郡県制の性格をめぐって -主としてトゥルファン出土資料による- 荒川正晴

史學雑誌第95編第3號 昭和61年3月20日発行 史学会

唐の中央アジア支配と墨離の吐谷渾(上)-トゥルファン・アスターナ出土の豆盧軍牒の検討を中心として- 荒川正晴

史滴 第9号 1988年1月30日発行 早稲田大学東洋史懇話会

唐の中央アジア支配と墨離の吐谷渾(下)-主に墨離軍の性格をめぐって- 荒川正晴 史滴 第10号1989年1月30日発行

早稲田大学東洋史懇話会

麹氏高昌国の遠行車牛について(1)(2) 荒川正晴

吐魯番出土文物研究会会報第16号研究特集I・第17号研究特集II 1989年7月1日・7月15日 吐魯番出土文物研究会

唐代駅伝制度の構造とその運用(I)~(V) 荒川正晴

吐魯番出土文物研究会会報第79号~83号 1992年8月1日~12月1日 吐魯番出土文物研究会

唐河西以西の伝馬坊と長行坊 荒川正晴 東洋学報 第70巻第3・4号 1989年3月 東洋文庫和文紀要

北朝隋・唐代における「薩寶」の性格をめぐって 荒川正晴 東洋史苑 第50・51合併号 平成10年1月 龍谷大學東洋史学研究会

西突厥の起源に就いて 安馬彌一郎 史學雑誌第五十編第十二号 昭和14年12月1日發行 史學會

アー・フォン・ルコック「高昌古址発見トルコ文摩尼教遺文攷」第二冊 石田幹之助 東洋学報第12巻第3号 大正11年9月

東洋協会学術?#123;査部

羽田亨博士の長逝を悼む 石田幹之助 史學雑誌第64編第7號 昭和30年7月20日發行 史学会

敦煌における土地税役制をめぐって

-九世紀を中心として- 池田 温 東アジアの古文書の史的研究 唐代史研究会報告VII集 1990年9月20日発行

唐代史研究会編

刀水書房

六世紀末葉における突厥可汗の系譜と継承 池田知正 東洋学報 第82巻第1号 2000年6月 東洋文庫和文紀要

「西突厥」起源説再考

-前近代における漢文史書を中心として- 池田知正 史学雑誌 第108編第11号 平成11年11月 史学会

古代チベットにおける霊神祭儀の物語

-敦煌文献P.T.126第二部の分析- 石川 巌 菊池英夫教授 山崎利男教授 古希記念アジア史論叢 2000年3月25日発行

中央大学東洋史学研究室編 刀水書房

突厥初期の可汗系譜について -護雅夫氏の「東突厥官稱號考序説-「突厥第一帝國」に於ける可汗-」を讀む- 伊瀬仙太郎

東洋学報 第38巻第4号 昭和31年3月31日発行 東洋学術協会

雲南省博物館編 雲南晋寧石寨山古墳群発掘報告 市川健二郎 東洋学報第43巻第1号

(書評)藤澤義美著 唐朝雲南経営史の研究 伊藤清司 岩手史学研究No.34 昭和35年6月10日発行 岩手史学会

遊牧民族鮓荅資料匯集 岩井大慧 遊牧社会史研究 第7冊 1961年2月 遊牧社会研究グループ

吐蕃のルと千戸 岩尾一史 東洋史研究 第59号第3号 平成12年12月31日発行 東洋史研究会

吐蕃支配下敦煌の漢人部落

-行人部落を中心に- 岩尾一史 史林第86巻第4号 2003年7月1日

隋唐時代のタングートについて

-西夏建国前史の再検討(一) 岩崎 力 アジア史における法と国家 2000年3月30日発行

中央大学人文科学研究所編 中央大学出版部

夏州定難軍節度使の建置と前後の政情 -西夏建国前史の再検討(二)- 岩崎 力

中央大学東洋史学専攻創立50周年記念アジア史論叢 中央大学アジア史研究第26号 2002年3月25日発行

中央大学東洋史学研究室編

刀水書房

唐代ソグド城塞の發掘と出土文書 岩佐精一郎 東洋學報 第22巻第3号 昭和10年5月 東洋協会學術?#123;査部

河西節度使の起源について 岩佐精一郎 東洋學報 第23号第2号 昭和11年 東洋協会學術?#123;査部

突厥毘伽可汗碑文の紀年 岩佐精一郎 東洋學報 第23巻第4号 昭和11年8月 東洋協会學術?#123;査部

古突厥碑文のBokli及びPar Purmに就いて 岩佐精一郎 岩佐精一郎遺稿 昭和11年11月20日發行 岩佐傳一

突厥の復興に就いて 岩佐精一郎 岩佐精一郎遺稿 昭和11年11月20日發行 岩佐傳一

大唐安西阿史夫人壁記の再読と歴史学的考察 石見清裕・森安孝夫 内陸アジア言語の研究XIII 1998年9月

中央ユーラシア学研究会

唐代「沙陀公夫人阿史那氏墓誌」譯注・考察 石見清裕 村山吉廣教授古希記念中国古典学論集 平成12年3月31日発行 汲古書院

書評 金子修一『隋唐の国際秩序と東アジア』 石見清裕 歴史学研究2002年5月15日発行 歴史学研究会編集 青木書店

上代蒙古に於ける車輌交通 内田吟風 東洋史研究第五卷第三號 昭和15年4月30日發行 東洋史研究會

西突厥初世史の研究 その一、室点密(Istami)=Silgibul時代 内田吟風 研究第33号 1964年 神戸大学文学会

西突厥初世史の研究 その二、達頭可汗(Tardu khakan)時代 内田吟風 研究第36号 1965年11月

神戸大学文学会

西突厥初世史の研究 その三、統葉護可汗のペルシア経営 内田吟風 研究第46号 1970年10月 神戸大学文学会

唐高宗勅撰西域志校録 内田黠L 研究第35号 1965年3月 神戸大学文学会

初期葛邏祿(Karluk)族史の研究 内田吟風 田村博士頌壽東洋史論叢 昭和43年5月25日發行

京都大学文学部東洋史研究室内田村博士退官記念事業會

『集史』の構成における「オグズ・カン説話」の意味 宇野伸浩 東洋史研究第61巻第1号 平成14年6月30日発行 東洋史研究会

大谷探検隊将来ウイグル銘文木片 梅村 坦 内陸アジア・西アジアの社会と文化 1983年6月30日発行 護 雅夫編

山川出版社

13世紀ウィグリスタンの公権力 梅村 坦 東洋学報 第59巻第1・2号 1977年10月 東洋文庫和文紀要

イナンチ一族とトゥルファン-ウイグル人の社會 梅村 坦 東洋史研究 第45巻第4号 昭和62年3月31日 東洋史研究会

ウイグル文家産分割文書の一例

-中国歴史博物館所蔵K7716- 梅村 坦 東アジアの古文書の史的研究 唐代史研究会報告VII集 1990年9月20日発行

唐代史研究会編

刀水書房

オングト族の都城址「オロン・スム」 江上波夫 江上波夫著作集4 東西交渉史 1985年4月 平凡社(初出:「自然と文化・別冊」II『遊牧民族の研究』昭和30年自然史学会)

ユーラシアにおける頭皮剥奪と髑髏杯保有の風習

-スキタイの起源の問題に寄せて- 江上波夫 江上波夫著作集10 内陸アジアの自然と文化 1985年6月

平凡社(初出:『東京大学東洋文化研究所創立20周年記念論集IV』北方ユーラシアにおける頭皮剥奪の風習-スキタイの起源の問題に寄せて-昭和37年)

ユーラシア北方民族の葬礼におけるリ面、截耳、剪髪について 江上波夫 江上波夫著作集10 内陸アジアの自然と文化 1985年6月 平凡社(初出:『学芸』第36巻5号 昭和23年)

月氏と崑崙の玉 江上波夫 江上波夫著作集10 内陸アジアの自然と文化 1985年6月

平凡社(初出:『和田博士還暦記念東洋史論叢』月氏と玉-その民俗名の解釈- 昭和26年 講談社)

オングト部におけるネストリウス教(景教)の系統とその墓石 江上波夫 江上波夫著作集10 内陸アジアの自然と文化 1985年6月 平凡社(初出:『東京大学東洋文化研究所紀要』第二冊 昭和26年)

メンフェン=ヘルフェン氏「月氏問題の再検討」 榎一雄 史學雑誌第59編第8號 昭和25年8月20日發行 史学会

ソグディアナと匈奴(1)(2)(3) 榎一雄

史學雑誌第64編第6號昭和30年6月20日、第64編第7號昭和30年7月20日、第64編8號昭和30年8月20日發行 史学会

イェニセイ河流域の突厥文字銘文石人について

-その作成年代を中心に- 大澤 孝 古代文化 12 1992年 古代學協会

8世紀初頭のイェニセイ・キルギズ情勢

-バルス・ベグの出自と対東突厥征伐計画をめぐって- 大澤 孝 史朋 28号 1996年5月 北海道大学東洋史談話会

新疆イリ川流域のソグド語銘文石人について

-突厥初世の王統に関する一史料- 大澤 孝

『ユーラシア遊牧社会の歴史と現在』 国立民族学博物館研究報告別冊no.20 1999年 国立民族学博物館

唐末の藩鎮と中央権力

-徳宗・憲宗朝を中心として- 大澤正昭 東洋史研究第32巻第2号 昭和48年9月発行 東洋史研究会

支那に於ける外來民族の漢化に就いて 王桐齡 史學雑誌第47編第11號 昭和11年11月1日發行 史学会

南詔国王と鐸鞘 大原良通 古代文化 Vol.52 10月号 2000年10月20日発行 (財)古代学協会

八世紀における吐蕃の対南詔国政策 大原良通 日本西藏学会々報 第48号 平成14年10月31日発行

大谷大学真宗総合研究所内日本西藏学会

後唐の明宗と舊習(上) 岡崎精郎 新第1(通算9)巻第4号 昭和20年11月5日発行 東洋史研究会

後唐の明宗と舊習(下) 岡崎精郎 第10巻第2号 昭和23年5月25日発行 東洋史研究会

河西ウイグル史に関する一研究

-国際関係、特に対遼関係を中心として-岡崎精郎石濱先生古稀記念東洋学論叢 昭和33年11月16日発行

関西大学文学部東洋史研究室 石濱先生古稀記念会

チュルク族の始祖伝説について-沙陀朱耶氏の場合- 岡崎精郎 史林 第34巻3号 1951年

慈覚大師の入唐紀行について(第2回)會昌廃仏の始末 岡田正之 東洋学報第12巻第2号 大正11年6月

東洋協会学術?#123;査部

慈覚大師の入唐紀行について(第3回)唐・回鶻の関係 岡田正之 東洋学報第12巻第3号 大正11年9月

東洋協会学術?#123;査部

ソグド王統攷

-オ=イ=スミルノワ説批判を中心として- 岡本 孝 東洋学報 第65巻3・4号 1984年3月 東洋文庫和文紀要

唐朝の國馬集中方法に就いて

-特に天寶之亂後を中心として- 岡谷 潔 史潮 第七年第三号 昭和12年9月25日發行 大塚史学会

唐代太原城の規模と構造 愛宕 元 唐代地域社会史研究 1997年2月28日発行 同朋社

ウィグルの稱號トゥトゥングとその周邊 小田壽典 東洋史研究 第46巻第1号 昭和62年6月30日 東洋史研究会

龍谷大学図書館蔵ウィグル文八陽経の断片拾遺 小田壽典 内陸アジア・西アジアの社会と文化 1983年6月30日発行 護 雅夫編

山川出版社

カラハン朝の起源はカルルク族か、ウイグル族か 小田壽典 愛大史学-日本史・アジア史・地理学-第12号

2003年3月15日発行 愛知大学文学部史学科

汪古部の一解釈 小野川秀美 東洋史研究第2卷第4號 昭和12年4月發行 東洋史研究會

鐵勒の一考察 小野川秀美 東洋史研究第五卷第二號 昭和15年2月發行 東洋史研究會

河曲六州胡の沿革 小野川秀美 東亜人文学報 第1巻第4号 昭和17年2月27日発行 京都帝国大学人文科学研究所

突厥碑文譯註 小野川秀美 『満蒙史論叢 第四』 昭和18年7月 日満文化協会

オンギン碑文譯注 小野川秀美 『羽田博士頌寿記念東洋史論叢』 1950年 東洋史研究会

考古学的資料から見た吐蕃と中央アジア及び西アジアとの古代交通(上)(下) -あわせてチベット西部において仏教が吐蕃に伝来した過程での地位を論ず-

霍 巍

高橋庸一郎訳 阪南論集 人文・自然科学編 第32巻第1号 1996年6月, 第32巻第2号 1996年9月 阪南大学学会

Toquz Oγuzと「九姓」の諸問題について 片山章雄 史學雑誌第90編第12号 1981年12月 史学会

突厥第二可汗国末期の一考察 片山章雄 史朋 17号 1984年9月 北海道大学東洋史談話会

突厥ビルゲ可汗の即位と碑文史料 片山章雄 東洋史研究 第五十一巻第三号 平成4年12月 東洋史研究會

マニ教研究ノート 加藤九祚 創価大学人文論集 第五号 1993年3月 創価大学人文学会

サマルカンド王グーラクとその行動

-クタイバの征服後を中心に- 神郡仁志 東洋史苑 第26・27合併号 昭和61年3月 龍谷大学東洋史学研究会

ウイグル王国における品位のある姿勢(講演要旨) アンネマリー=フォン=ガベン 東洋学報 第45巻3号 昭和37年12月31日

「高昌のウイグル王国」(850~1250)について(その1) フォン=ガバイン 著

鷲見東觀 訳 愛知教育大学研究報告 人文科学 第14輯 1965年3月

「高昌のウイグル王国」(850~1250)について(その2) フォン=ガバイン 著

鷲見東觀 訳 愛知教育大学研究報告 人文科学 第16輯 1967年3月 愛知教育大学

「高昌のウイグル王国」(850~1250)について(その3) フォン=ガバイン 著

鷲見東觀 訳 愛知教育大学研究報告 人文科学 第19輯 1970年3月 愛知教育大学

南詔国の仏教 鎌田茂雄 中国仏教史第5巻(隋唐の仏教(上)) 1994年6月25日 東京大学出版会

敦煌のチベット字人名資料

-台湾本一二五文書- 上山大峻 東アジアの古文書の史的研究 唐代史研究会報告VII集 1990年9月20日発行

唐代史研究会編

刀水書房

會昌の廢佛に就いて

-特に原因の考察- 龜川正信 支那仏教史学第6巻第1号 昭和17年7月15日発行 支那仏教史学会編輯

ソ連邦に於ける中央アジアの最近の考古学的研究 -特にエス・ペ・トルストフの業績について- 香山陽坪

史學雑誌第59編第8號 昭和25年8月20日發行 史学会

サカ諸種族の考古学的研究 -ア・エヌ・ベルンシタムの天山地方の?#123;査から- 香山陽坪

史學雑誌第65編第2號 昭和31年2月20日發行 史学会

オスアリについて -中央アジア・ゾロアスター教徒の蔵骨器- 香山陽坪 史學雑誌第72編第9號 昭和38年9月20日發行

史学会

遼五京の外交的機能 河上 洋 東洋史研究 第52巻第2号 平成5年9月30日 東洋史研究会

カルルク西遷年代考

-シネウス・タリアト両碑文の再検討による- 川崎浩孝 内陸アジア言語の研究VIII 1993年 中央ユーラシア学研究会

隋末唐初の諸反乱の評価をめぐって 気賀沼 保規 東洋史苑 第13号 昭和53年12月 龍谷大学東洋史学研究会

尉遲氏の中国入居について 北村 高 東洋史苑 第11号 昭和52年12月 龍谷大学東洋史学研究会

妙法蓮華経玄賛のウイグル訳断片 百濟康義 内陸アジア・西アジアの社会と文化 1983年6月30日発行 護 雅夫編

山川出版社

唐五代の仮父子的結合の性格

-主として藩帥的支配権力との関連において- 栗原益男 史学雑誌 第62編第6號 昭和28年6月20日発行 史学会

唐末五代の假父子的結合における姓名と年齢 栗原益男 東洋学報 第38巻第4号 昭和31年3月31日発行 東洋学術協会

回鶻衰亡考 桑田六郎 東洋学報 一七巻一号 昭和3年4月 東洋協会?#123;査部

囘々に就きて 桑田六郎 史學雑誌第三十編第十二号 大正8年12月 史學會

雲南省社会科学院東巴文化研究所編訳?#123;西東巴古籍訳注全集全100巻 黒澤直道

東洋学報第85巻第3号 2003年9月19日発行 東洋文庫

唐朝における東突厥の降衆の安置問題に関する一考察 呉 玉貴

7・8世紀の東アジア 東アジアにおける文化交流の再検討 2000年6月1日発行 大阪経済法科大学出版部

武周時期の御史台について 胡 宝華 史林 79巻6号 1996年11月 京都大学文学部内史学研究会

ソグドの神々とイスラム・アラブの侵攻 小谷仲男 西南アジア研究 No.46 1997年3月31日 西南アジア研究会

ナシ族の龍説話とトンバ教開祖 斎藤達次郎 比較文化研究No.7 1988年3月 比較文化研究会

ナシ族の世界観と雲南少数民族の文化 斎藤達次郎 人文科学論集第40号 1987年7月

名古屋経済大学/市[屯β]学園短期大学 人文科学研究会

ナシ族の龍説話 斎藤達次郎 人文科学論集第41号 1987年12月 名古屋経済大学/市[屯β]学園短期大学 人文科学研究会

突騎施の台頭と唐の砕葉放棄について 斉藤達也 史滴 第12号 1991年1月30日発行 早稲田大学東洋史懇話会

唐・回鶻絹馬交易再考 齋藤 勝 史学雑誌 第108編第10号 史学会

周紹良・趙超主編唐代墓誌彙編續集 斎藤 勝 東洋学報第85巻第1号 2003年9月19日発行 東洋文庫

唐代の馬政と牧地 斎藤 勝 日中文化研究 14号 1999年1月10日 勉誠出版

新疆ウイグル社會の農業問題-一七六〇~一八二〇年- 佐口 透 史學雑誌第59編第12號 昭和25年12月20日發行 史学会

サリク-ウイグル種族史考 佐口 透 山本博士還暦記念東洋史論叢 1972年10月20日

山本博士還暦記念東洋史論叢編纂委員会編 山川出版社

オンギン碑文に関する一考察

-その設立目的と設立年代を中心として- 澤田 勲 東洋史研究第41巻第4号 1983年

オンギン碑文東面第四行の解釈について 沢田 勲 内陸アジア・西アジアの社会と文化 1983年6月30日発行 護 雅夫編

山川出版社

オンギン碑文訳解 沢田 勲 駿大史学 第61号 1984年3月 駿大史学会

覩貨羅の民族地理年代 椎尾辨匡 史學雑誌第23編第6號 明治45年6月20日發行 史学会

ウイグル語仏典について 庄垣内正弘 続シルクロードと仏教文化 昭和55年4月15日発行 樋口隆康 編

(財)東洋哲学研究所

五胡十六国・北魏の牧畜 市来弘志 日中文化研究 14号 1999年1月10日 勉誠出版

9世紀後半から12世紀のモンゴル高原 白石典之 東洋学報 第82巻第4号 2001年3月 東洋文庫和文紀要

突厥闕特勤碑名考 白鳥庫吉 白鳥庫吉全集 第五巻 岩波書店

東アジア南部民族の構成と文化史的體系 白鳥芳郎 東方学会創立五十周年記念東方学論集 平成9年5月31日発行 財団法人東方学会

吐蕃支配期の東西交通 -関隴朝貢道の途絶と西域朝貢使- 白須浄真 東洋史苑第六号 昭和48年3月 龍谷大学東洋史部会

カラ=ハーン朝史研究の基本的諸問題 代田貴文 教育・研究 第15号 2001年12月25日 中央大学附属高等学校

ヤークーブ・ベグ政権の性格に関する一考察 新免 康 史學雑誌第96編第4號 昭和62年4月20日発行 史学会

新疆ムスリム反乱(一九三一~三四年)と秘密組織 新免 康 史學雑誌第99編第12號 平成2年12月20日発行 史学会

唐玄宗「御製御書」闕特勤碑文考

-唐・突厥・吐蕃をめぐる外交関係の推移- 菅沼愛語 史窓 第五十八号

史学科創設五十周年記念特集号 2001年2月 京都女子大学史学会

安南に關する朝衡 杉本直治郎 阿倍仲麻呂傳研究 -朝衡傳考- 昭和15年12月6日発行 育芳社

イスラーム史料に見えたる驃・吐蕃および南詔 杉本直治郎 東方学会創立15周年記念 東方学論集 昭和37年7月1日発行

財団法人東方学会

南詔の意義及び六詔の住地について 鈴木 俊 東洋学報第19巻第2号 昭和6年8月発行 東洋協会学術?#123;査部

ウイグル可汗国の組織体制

-「都督」とその命令系統について- 角 達之助 北海道立北方民族博物館研究紀要第10号 2001年3月

北海道立北方民族博物館

ウイグル可汗国の官職

-宰相について- 角 達之助 北海道立北方民族博物館研究紀要第11号 2002年3月 北海道立北方民族博物館

蒙國大詔徳化頒碑補攷 諏訪義譲 大谷學報 第11卷第4號 昭和5年10月 大谷学会

「冠帯之國」拾遺 -突厥の衣冠制導入を中心として- 關尾史郎 環日本海研究年報第2号 1995年3月発行

新潟大学大学院現代社会文化研究科

環日本海研究室

唐代長安の店舗立地と街西の致富譚 妹尾達彦 布目潮[シ風]博士古希記念論集 東アジアの法と社会 1990年5月30日発行

布目潮[シ風]博士古希記念論集刊行会 汲古書院

中唐の社会と大明宮 妹尾達彦 中唐文学の視角 1998年2月28日発行 創文社

越析詔(磨些詔)及磨些蠻の住地について 蘇我部静雄 史学雑誌第42編第4号 昭和7年4月1日発行 史学会

唐前期の仏教政策について 蘇 瑤崇 史林 第80巻第2号 1997年3月 京都大学文学部内史学研究会

雲南社会における統合と宗教

-南詔・大理国時代を中心に- 武内 剛 行動と文化11号 1987年2月25日発行 行動と文化研究会

回[糸乞]に於ける摩尼教迫害運動 田坂興道 東方学報 東京 第11冊之1 昭和15年3月12日發行 東方文化学院

中唐に於ける西北邊疆の情勢に就いて 田坂興道 東方学報 第11冊之2 昭和15年7月 東方文化学院

漠北時代に於ける回[糸乞]の諸城郭に就いて 田坂興道 蒙古学報第二號 昭和16年4月 (財)善隣協会内蒙古研究所

南詔国後半期の王権思想の研究 -『南詔図伝』の再解釈- 立石謙次 東洋学報 第85巻第2号 2003年9月25日発行

(財)東洋文庫

内陸アジアの傷身行為に関する一試論 谷 憲 史學雑誌第93編第6號 昭和59年6月20日發行 史学会

唐代前半期の蕃将 谷口哲也 史朋 9号 1978年10月 北海道大学東洋史談話会

天山山中のルーニック碑文を伴う岩画 K.Sh.タバルディエフ、O.A.ソルトバエフ

林俊雄 訳 シルクロード研究第3号 2002年3月 創価大学シルクロード研究センター

戦後のソ連における蒙古史研究の文献 田山 茂 史學雑誌第72編第7號 昭和38年7月20日發行 史学会

Kok Turk碑文のbuntagiなる語について タラート・テキン

萩信夫訳 東洋史苑 第7号 昭和48年12月 龍谷大学東洋史学研究会

敦煌吐蕃期の僧官制度

-とくに教授について- 竺沙雅章 布目潮[シ風]博士古希記念論集 東アジアの法と社会 1990年5月30日発行

布目潮[シ風]博士古希記念論集刊行会 汲古書院

唐の和蕃公主 -回[糸乞]を中心にして 築山治三郎 多賀秋五郎博士古希記念論文集

アジアの教育と社会 不昧堂出版

唐代公主(皇女)の降嫁について 築山治三郎 古代文化 Vol.35 10月号 1983年10月20日 (財)古代学協会

唐朝の対藩鎮政策について

-河南「順地」化のプロセス- 辻 正博 東洋史研究第46巻第2号 昭和62年9月30日発行 東洋史研究会

唐新城長公主について

-文献と墓誌の両面から- 傳 江 東洋史苑 第56号 平成12年10月 龍谷大学東洋史学研究会

吐谷渾の西蔵名と支那史傳 戸田茂喜 東洋學報 第27巻第1号 昭和14年11月 東洋協会学術?#123;査部

唐代における飛龍厩と飛龍使 -特に大明宮の防衛を中心として- 趙 雨楽 史林 第74巻第4号 1991年7月1日発行

史学研究会

唐代の観察処置使について

-藩鎮体制の一考察- 鄭 炳俊 史林77巻5号 1994年9月 史学研究会

拉薩の唐蕃會盟碑 内藤虎次郎 内藤湖南全集第七巻 昭和45年2月25日発行 筑摩書房

突厥カプガン可汗の北庭攻撃 内藤みどり 東洋学報 第76巻第3・4号 1995年3月 東洋文庫和文紀要

突厥キョリ=チョル考 内藤みどり 内陸アジア史研究13 1998年3月 内陸アジア史学会

突厥による北庭のバスミル攻撃事件 内藤みどり 東洋学報 第81巻第4号 2000年3月 東洋文庫和文紀要

吐蕃の河西進出と東西交通 長澤和俊 史觀 第47冊 昭和31年9月1日 早稲田大学史学会編

遼代回鶻路考 長澤和俊 中国正史の基礎的研究 昭和59年3月30日発行 早稲田大学出版部

後期唐朝の江淮支配

-元和時代の一側面- 中砂明徳 東洋史研究第47巻第1号 昭和63年6月30日発行 東洋史研究会

辺境都市としての唐代前半期の雲州 中野醇子 史朋 22号 1988年12月 北海道大学東洋史談話会

『会昌一品制集』にみえる「詔意」「書意」「勅旨」について 中村裕一 唐代公文書研究 1996年12月20日発行 汲古書院

唐律に於ける通則的規定の来源 仁井田 陞 東方学報 第11冊之2 昭和15年7月 東方文化学院

麹氏高昌国の地方官制について 西村陽子 中央大学東洋史学専攻創設五十周年記念 アジア史論叢 2002年3月25日発行

白東史学会

刀水書房

隋末の叛乱期における李密の動向 布目潮風 史學雑誌第74編第10號 昭和40年10月20日發行 史学会

隋の大義公主について-隋唐世界帝国の指標としての「和蕃公主」 布目潮風 隋唐帝国と東アジア世界 1979年8月発行

唐代史研究会編汲古書院

新学府にみる唐廻鶻関係 根本 誠 内陸アジア史論集 第一 昭和39年11月 内陸アジア史学会(国書刊行会より再刊)

唐代の天可汗に就いて 根本 誠 遊牧社会史探究 第37冊 1968年11月 遊牧社会研究グループ

中世中国における地獄と訴訟 朴 永哲 史林 80巻4号 1997年7月 京都大学文学部内史学研究会

唐故三十姓可汗貴女阿那氏之墓誌 羽田 亨 東洋学報 第三巻第一号 大正2年1月 東洋協会?#123;査部

九姓回鶻とToquz Oγuzとの関係を論ず 羽田 亨 東洋学報 第九巻第一号 大正8年1月 東洋協会?#123;査部

西魏に於ける虜姓再行の事情 濱口重國 東洋學報 第25巻第3号 昭和13年5月 東洋協会學術?#123;査部

唐代馬政の一斑 濱谷秀雄 日本大学文学科研究年報 第三輯(第三分冊)史学研究年報 昭和11年7月5日 日本大学文学科

南詔國の成立 林 謙一郎 東洋史研究 第49巻第1号 平成2年6月30日発行 東洋史研究会

南詔国後半期の対外遠征と国家構造 林 謙一郎 史林 第75巻4号 1992年7月1日発行 史学研究会

南詔・大理国の統治体制と支配 林 謙一郎 東南アジア 歴史と文化28 1999年6月1日 東南アジア史学会

「統一」を可能にしたもの -南詔・大理国の国家形成- 林 謙一郎 アジア遊学 No.9 1999年10月20日 勉誠出版

モンゴル高原における古代テュルクの遺跡 林 俊雄 東方學 第81輯 平成3年1月 東方学会

モンゴリアの石人 林 俊雄 国立民族学博物館研究報告 20巻1号 1996年 国立民族学博物館

ウイグルの対唐政策 林 俊雄 創価大学人文論集 第四号 1992年3月 創価大学人文学会

突厥の石人に見られるソグドの影響

-とくに手指表現に焦点を当てて- 林 俊雄 創価大学人文論集 第五号 1993年3月 創価大学人文学会

略奪・農耕・交易から観た遊牧國家の發展 -突厥の場合- 林 俊雄 東洋史研究 第44巻第1号 昭和60年6月 東洋史研究会

唐代藩鎮の跋扈と鎮将(一)(二)(三)(四) 日野開三郎 東洋學報

第26巻第4号 昭和14年8月

第27巻第1号 昭和14年11月

第27巻第2号 昭和15年2月

第27巻第3号 昭和15年5月 東洋協会學術?#123;査部

(日野開三郎東洋史学論集 第一巻 唐代藩鎮の支配体制(1980年三一書房)に収録)

唐代和蕃公主の真假制と資装費 日野開三郎 隋唐帝国と東アジア世界 1979年8月発行 唐代史研究会編 汲古書院

南詔国観音応化図(部分) 藤井有鄰館学芸部 有鄰館精華(改訂版) 昭和60年 (財)藤井斉成会

『旧唐書』-その祖本の研究序説- 福井重雅 中国正史の基礎的研究 昭和59年3月30日発行 早稲田大学出版部

唐代の進奏院

-唐代後半期「藩鎮体制」の一側面- 福井信昭 東方學第105輯 平成15年1月 東方学会

沙州歸義軍節度始末記(一)(二)(三)(四) 藤枝 晃 東方学報(京都) 第12冊第3分 昭和16年11月

第12冊第4分 昭和17年3月

第13冊第1分 昭和17年6月

第13冊第2分 昭和17年8月 東方文化研究所

「長行馬」文書 藤枝 晃 東洋史研究 第10巻第3号 昭和23年7月15日発行 東洋史研究会

剣南節度使韋皋の南詔對策 -唐・南詔交渉史研究- 藤澤義美 歴史 第3輯 昭和26年9月28日 東北史学会

唐朝雲南経営史の研究 藤澤義美 岩手大学学芸学部研究年報10巻 昭和31年

唐朝雲南経営史の研究(其二) 藤澤義美 岩手大学学芸学部研究年報11巻 昭和32年

唐朝雲南経営史の研究(其三) 藤澤義美 岩手大学学芸学部研究年報13巻 昭和33年

唐朝雲南経営の内容と目的 藤澤義美 岩手大学学芸学部研究年報15巻

古代雲南地方の鉱物資源 藤澤義美 岩手史学研究No.13 昭和28年3月25日発行 岩手史学会監修

新岩手社

古代東南アジアの文化交流

-ビルマ・雲南ルートを中心に- 藤澤義美 歴史教育第5巻第5号 昭和32年5月1日 歴史教育研究会編

日本書院

南詔の民族系統と哀牢伝説について 藤澤義美 岩手史学研究No.38 昭和36年12月10日発行 岩手史学会

新中国における雲南史研究の動向 藤澤義美 東洋学報第43巻第2号

南詔国の王統について 藤澤義美 山本達郎博士古希記念 東南アジア・インドの社会と文化 1980年12月20日発行

山本達郎博士古希記念論叢編集委員会編 山川出版社

『唐會要』の流傳に関する一考察 古畑 徹 東洋史研究 第五十七巻第一号 平成10年6月 東洋史研究會

于[テン]考 堀 謙徳 史學雑誌第23編第5號 明治45年5月20日發行 史学会

藩鎮親衛軍の権力構造 堀 敏一 東洋文化研究所紀要 第20冊 昭和35年3月10日発行 東京大学東洋文化研究所

ウイグル古典文学と東西文化の関係について-ウイグル族古典文学簡史(上)(中)(下)- マイマイティミン・ユスプ

高橋庸一郎訳 阪南論集 人文・自然科学編 第33巻第3号 1998年1月, 第33巻第4号 1998年3月, 第34巻第1号 1998年6月 阪南大学学会

カスピ海南岸の諸國と唐との通行 前嶋信次 史學雑誌第三九編第十二号 昭和3年12月1日發行 史學會

十世紀時代の九姓韃靼-蒙古人の蒙古地方の成立- 前田直典 東洋学報 第32巻第10号 昭和23年10月5日発行

東洋協会学術?#123;査部

吐蕃と河西九曲 前田正名 中国の社会と宗教 -東洋史学論集 第二- 昭和29年9月5日発行 不昧堂書店

甘州回鶻集団の成立に関する論考 前田正名 史學雑誌第71編第10號 昭和37年10月20日發行 史学会

南詔・大理・民家の言葉 牧野 巽 牧野巽著作集第四巻 雲南民族史研究/東亜米作民族研究 1985年7月15日発行

御茶の水書房

唐代後半期の人事における幕職官の位置 松浦典弘 古代文化vol.50 1998年11月 ㄘ敚┕糯f会

唐代における官人處罰 松浦典弘 東洋史研究 第53巻3号 平成6年12月30日 東洋史研究会

亀茲をめぐる唐と西突厥の情勢 松崎光久 内陸アジア史研究 創刊号 1984年3月 内陸アジア史学会

西暦六三〇年代の西突厥の情勢 松崎光久 史観第106冊 昭和57年3月25日発行 早稲田大学史学会

唐代後半の北辺における軍糧政策 丸橋充拓 史林 第82巻第3号 1999年5月 京都大学文学部内史学研究会

五代軍閥の系統 宮崎市定 東洋史研究叢刊四之一 アジア史研究第一 昭和32年12月25日初版発行 同朋舎

押蕃使の設置について

-唐玄宗期における対異民族政策の転換- 村井恭子 東洋学報第84巻第4号 2003年3月20日発行 東洋文庫

護雅夫著『古代トルコ民族史研究I』 村山七郎 東洋学報 第50巻第4号 1968年3月31日発行 東洋学術協会

唐代における沙陀部族の成立 -沙陀部族考 その一- 室永芳三 有明工業高等専門学校紀要 第8号 昭和46年12月25日発行

有明工業高等専門学校

吐魯蕃発見朱邪部落文書について -沙陀部族考 その一(補遺)- 室永芳三

有明工業高等専門学校紀要 第10号 昭和49年1月25日発行 有明工業高等専門学校

唐代における沙陀部族の抬頭 -沙陀部族考 その二-室永芳三 有明工業高等専門学校紀要 第11号 昭和50年1月発行

有明工業高等専門学校

唐代の代北の李氏について -沙陀部族考 その三- 室永芳三 有明工業高等専門学校紀要 第7号 昭和46年3月1日発行

有明工業高等専門学校

マー・ワラー・アンナフルにおける突騎施勢力の伸張について 目黒 輝

菊池英夫教授 山崎利男教授 古希記念アジア史論叢 2000年3月25日発行 中央大学東洋史学研究室編 刀水書房

「唐魏博節度使何弘敬墓誌銘」試釈 森部 豊 吉田寅先生古希記念アジア史論集 平成9年2月28日発行

吉田寅先生古希記念論文集編集委員会

後晋安万金・何氏夫妻墓誌銘および何君政墓誌銘 森部 豊 内陸アジア言語の研究XVI 2001年9月10日発行

中央ユーラシア学研究会

唐末沙陀「李克用墓誌」訳註・考察 森部豊・石見清裕 内陸アジア言語の研究XVIII 2003年8月10日発行

中央ユーラシア学研究会

唐末五代の代北におけるソグド系突厥と沙陀 森部 豊 東洋史研究第62巻第4号 平成16年3月31日発行 東洋史研究会

突厥帝国内部におけるソグド人の役割に関する一資料 -ブグト碑文- 護 雅夫 史學雑誌第81編第2號 昭和47年2月20日發行

史学会

チベット語史料中に現れる北方民族

-DRU-GUとHOR- 森安孝夫 アジア・アフリカ言語文化研究 No.14 1977年

東京外語大学アジアアフリカ言語文化研究所

増補:ウィグルと吐蕃の北庭争奪戦及びその後の西域情勢について 森安孝夫 アジア文化史論叢3 1979年8月 流沙海西奨学会

山川出版社

元代ウィグル仏教徒の一書簡

-敦煌出土ウィグル語文献補遺- 森安孝夫 内陸アジア・西アジアの社会と文化 1983年6月30日発行 護 雅夫編

山川出版社

吐番の中央アジア進出 森安孝夫 金沢大学文学部論集 史学科篇 第四号 1983年11月 金沢大学文学部

ウイグル文字新考

-囘囘名称問題解決への一礎石- 森安孝夫 東方学会創立五十周年記念東方学論集 平成9年5月31日発行財団法人東方学会

護雅夫著『古代トルコ民族史研究』第III巻 森安孝夫 東洋史研究 第五十七巻第三号 平成10年12月 東洋史研究會

ウィグルの西遷について 森安孝夫 東洋学報 第59巻第1・2号 1977年10月 東洋文庫和文紀要

ウイグルから見た安史の乱 森安孝夫 内陸アジア言語の研究XVII 2002年9月10日発行 中央ユーラシア学研究会

唐代に於ける假子制について 矢野主税 史学研究記念論叢 昭和25年10月5日発行 広島文理科大学史学科教室編 柳原書店

唐代に於ける仮子制の発展について 矢野主税 西日本史学6 1951年 西日本史学会

延暦の遣唐使がもたらした唐・吐蕃情報 -『日本後紀』所収「唐消息」の基礎的研究- 山内晋次

史学雑誌 第103編第9号 平成6年9月20日発行 史学会

古代チベット史考異 -吐蕃王朝と唐朝との婚姻関係(上)- 山口瑞鳳 東洋学報 第49巻第3号 昭和41年12月31日発行

東洋学術協会

古代チベット史考異 -唐朝と古代チベット王朝との婚姻関係(下)- 山口瑞鳳

東洋学報 第49巻第4号 昭和42年3月31日発行 東洋学術協会

蘇毘の領界 -rTsan yulとYan lag gsum pahi ru- 山口瑞鳳

東洋学報 第50巻第4号 1968年3月31日発行 東洋学術協会

白蘭とSum paのrLans氏 山口瑞鳳 東洋学報第52巻第1号 1969年6月30日発行 東洋学術協会

東女国と白蘭

-rLans氏とsBrans氏- 山口瑞鳳 東洋学報第54巻第3号 1971年12月発行 東洋学術協会

A.マクドナルド著

ペリオ・チベット文書の読解 山口瑞鳳 東洋学報第54巻第4号 1972年3月31日発行 東洋学術協会

吐蕃王国仏教史年代考 山口瑞鳳 成田山仏教研究所紀要 第3号(不動明王特集)1978年 成田山新勝寺

ソンツェソ・ガムポ王の「十六条法」の虚構性と吐蕃の刑法 山口瑞鳳 隋唐帝国と東アジア世界 1979年8月発行

唐代史研究会編汲古書院

沙州漢人による吐蕃二軍団の成立とmKhar tsan軍団の位置 山口瑞鳳

東京大学文学部文化交流研究施設研究紀要第4号 1980年 東京大学文学部

漢人および通頬人による沙州吐蕃軍団編成の時期 山口瑞鳳 東京大学文学部文化交流研究施設研究紀要第5号 1981年

東京大学文学部

吐蕃王朝外戚支配機構「尚論」制の成立と意義 山口瑞鳳

東アジアの古文書の史的研究 唐代史研究会報告VII集 1990年9月20日発行 唐代史研究会編

刀水書房

九姓回鶻可汗の系譜

-漠北時代ウイグル史覚書1- 山田信夫 東洋学報 第33巻第3・4号 昭和26年10月 東洋学術協会

遊牧ウイグル国の滅亡 山田信夫 古代史講座11古代における政治と民衆 昭和40年10月15日発行 学生社

ウイグル王国の仏教文化 山田信夫 シルクロードと仏教文化 昭和54年10月30日発行 岡崎敬 編(財)東洋哲学研究所

Drug-gu(Dru-gu, Drug)に就いて 山本達郎 東洋學報 第26巻第1号 昭和13年11月

東洋協会學術?#123;査部

ゾロアスター教のフラフストラ観 山本由美子 史學雑誌第94編第9號 昭和60年9月20日発行 史学会

リャザノフスキー氏「シベリア遊牧民の慣習法」 矢澤利彦 東洋學報 第27号第1号 昭和14年11月

東洋協会學術?#123;査部

唐代の馬政 横山貞裕 国士館大学人文学会紀要 第3号 昭和46年3月1日 国士館大学文学部人文学会

胡服について 横山貞裕 多賀秋五郎博士古希記念論集 アジアの教育と社会 昭和58年5月26日発行 不昧堂出版

カラバルガスン碑文のソグド語版について 吉田 豊 西南アジア研究 No.28 1988年3月30日 西南アジア研究会

無常を説くマニ教ソグド語文書 -京都大学文学部所蔵の写真資料から- 吉田 豊 オリエント 第37巻第2号 1994年

日本オリエント学会

ソグド語の人名を再構する 吉田 豊 三省堂ぶっくれっと No.78 1989年1月1日 (株)三省堂 宣伝部

ソグド文字で表記された漢字音 吉田 豊 東方学報 京都 第66冊 1994年3月30日 京都大学人文科学研究所

魏博と成徳

-河朔三鎮の権力構造についての再検討- 渡邊 孝 東洋史研究第54巻第2号 平成7年9月30日発行 東洋史研究会

中晩唐期における官人の幕職官入仕とその背景 渡邊 孝 中唐文学の視角 1998年2月28日発行 創文社

陽鄭氏襄城公房一支と成徳軍藩鎮 (木→水) -河朔三鎮の幕職官をめぐる一考察- 渡邊 孝 吉田寅先生古稀記念アジア史論集 平成9年2月28日発行

吉田寅先生古稀記念論文編集委員会

唐後半期の藩鎮辟召制についての再検討 渡邊 孝 東洋史研究第60巻第1号 平成13年6月30日発行 東洋史研究会

(HOME|別館E(馬・乳関係)|別館M(モンゴル関係) 02-11-2005 11:13 AM)

【飞霜】

这部书一共两册,北大图书馆有,当年还借过一段日子。

羽田博士史學論文集

羽田博士史學論文集

上卷 歴史篇

羽田 亨

同朋社

目次

蒙古驛傳考

上 漠北時代の驛傳

下 元朝の驛傳

附 蒙古和林と支那との驛路

元朝驛傳雑考

一 緒言

二 永楽大典所収經世大典站赤門に就いて

三 經世大典・元史・元典章の站赤に關する記事に就いて

四 驛站の管理

イ 中央に於ける管理 ロ 地方に於ける管理

五 站官

六 急遞鋪

七 海青牌

イ 符牌の種類 ロ 海青牌制定の時期

ハ 海青牌の名稱の由来と形状 ニ 海青牌に附せられた特権

ホ 海青牌と圓牌との關係

補記

一 語義

二 元朝に於ける站の沿革

一 起原(太祖時代) 二 蒙古時代の站(太宗時代)

三 元朝の站

三 今日站と稱するもの

成吉思皇帝聖旨牌

元朝秘史に見ゆる蒙古の文化

唐代回鶻史の研究

緒言

第一期

第一章 特健俟斤の時代

第二章 菩薩の時代

第三章 吐迷度の時代

第四章 婆閏・比粟毒・獨解支の時代

第五章 伏帝匐・承宗・伏帝難の時代

第二期

第一章 骨力裴羅(骨咄禄毘伽闕懐仁可汗)の時代

第二章 磨延啜(登里[口羅]?#123;密施頡翳徳密施毘伽)可汗の時代

第三章 牟羽(愛登里[口羅]汨?#123;密施頡咄登密施合倶録毘伽)可汗の時代

第四章 頓莫賀達干(合骨咄禄毘伽可汗)の時代

第五章 多邏斯(登里[口羅]?#123;密施倶録毘伽可汗)

阿啜(汨咄禄毘伽可汗)

骨咄禄(登里[口羅]羽録?#123;密施合汨咄禄胡禄毘伽可汗)

倶録毘伽(愛登里邏汨徳?#123;密施倶録毘伽可汗)の時代

第六章 保義(愛登里[口羅]汨?#123;密施合毘伽)可汗の時代

第七章 崇徳可汗(君登里邏羽録?#123;密施句主録毘伽)

曷薩特勤昭禮可汗(愛登里[口羅]汨?#123;密施合毘伽)

胡特勤彰信可汗(愛登里[口羅]汨?#123;密施合句主録毘伽)

[こう][馬及]特勤の時代

第三期

第一章 烏介可汗に属したる回鶻

第二章 安西甘州高昌地方の回鶻

(附録一) 唐代の回鶻君長治世年表

(附録二) 九姓廻鶻愛登里[口羅]汨?#123;密施合毘伽可汗聖文神武碑考

第一章 碑文の文字と解釋

第二章 碑文の行數と字數

第三章 碑石建設の年代

九姓回鶻とToquz Oγuzとの關係を論ず

補遺(一)

補遺(二)

漠北の地と康國人

遼金時代の[幺し]軍に就いて

一 箭内學士の「遼金時代の所謂[幺し]軍に就いて」を讀む

二 「再び遼金時代の[幺し]軍に就いて」を讀む

西遼建國の始末及び其の年紀

一 大石の遼を去りし年

二 北庭都護府に駐るに至りし迄

イ 黒水 ロ 可敦城

三 回鶻王畢勒哥の招致

四 忽兒珊との戰い

五 大石の即位と西遼の年紀

帖木兒大王

一 序言 二 帖木兒の家系 三 帖木兒の生まれし國 四 飛躍の第一歩 五 流離困頓の時代 六 帖木兒の創業 七 最後の飛躍 八 帖木兒の人物 九 帖木兒に對する評価 十 帖木兒と成吉思汗 十一 帖木兒と宗教 十二 土耳古族の盛衰

帖木兒と永楽帝 -帖木兒の支那征伐の計畫-

中亞探險

一 緒言 二 古代の遺跡 三 遺跡の紹介 四 諸國の探險 五 諸國の探險(續) 六 遺物の管理(上) 七 遺物の管理(下) 八 遺物の研究

龜茲・于[テン]の研究

大谷伯爵所藏 新疆史料解説

緒言 第一 西域長史李柏に關する文書

讀書漫録

大月氏及び貴霜に就いて

敦煌の千佛洞について

敦煌千佛洞の營造に就きて

敦煌遺書活字本第一集解題

一 沙州地志殘卷 二 張氏勳徳記殘卷 三 曹議金疏 四 曹元深疏 五 陰善雄・羅盈達・閻海員・張懐慶銘?#123; 六 常樂副使田員宗啓 七 敦煌名族志殘卷 八 小説明妃傳殘卷 九 薩婆多宗五事論

唐光啓元年書寫沙州・伊州地誌殘卷に就いて

一 緒言二 體裁 三 本文の轉寫 四 本書の性質 五 本書の特徴

「興胡」名義考

慧超往五天竺國傳[多]録

四譯館則解題

輓近に於ける東洋史學の進歩

一 東洋史研究所の史料二 古代語の發見(古代トルコ語・三種の印度欧羅巴語・西夏語)三 西域諸國の人種四 諸宗典の發見五 ソグド文化の東方に及ぼせる影響六 回鶻文化の東漸七 結尾

隋唐時代の文化

一 隋唐時代の大勢二 隋唐文化の統一性三 隋唐文化の世界性

元朝の漢文化に對する態度

支那の北族諸朝と漢文明

漢民族の同化力説に就いて

宋元時代總説

宋元時代といふ區分庶民階級の擡頭宋時代北方民族の發展元時代元代の政治と社會元と漢文化交通の發達

北方亜細亜に於ける遊牧民の社會的生活

日本文化發達史上に於ける外國文化の影響

飛鳥奈良時代の文化綜説

口繪圖版

第一圖 東部シベリア出土蒙古銀牌

第二圖 元國書牌

第三圖 ドニーパー河附近出土蒙古銀牌

第四圖 ジェルフォルコン像

第五圖 元海青牌

第六圖 トムスク州ボゴミルスク縣出土圓牌

第七圖 成吉思皇帝聖旨牌

第八圖 銀牌斷片(元満洲國立博物館)

第九圖 李柏文書三種(龍谷大學西域文化資料)

第十圖 敦煌第七十四番洞壁畫于[テン]王供養D 第十一圖 沙州・伊州地誌殘卷寫影(唐光啓元年書寫)

羽田博士史學論文集

下卷 言語・宗教篇

羽田 亨

同朋社

目次

回鶻文字考

第一章 字體

第二章 回鶻人が回鶻文字を使用するに至りし時代

第三章 回鶻文字の製作とその系統

第一節 ネストル教徒がシリヤ文字より製作せりとの説

第二節 摩尼教徒の用いたるソグド文字より發達せりとの説

第三節 突騎施(Turgis)の文字

第四章 回鶻文字といふ名稱 [穴/卒]都語の回鶻碑文 回鶻文女子賣渡文書 回鶻文の佛典に就て 回鶻文の天地八陽神呪經 一 經名 二 飜譯の原本 三 回鶻譯として現存せる三種の天地八陽神呪經 四 經典の形式に就きて 飜譯に關する注意經文の譯註解補註 語彙 補遺露西亞學士院所藏八陽神呪經卷首大谷氏所藏斷片 回鶻文法華經普門品の斷片 註解 回鶻譯本安慧の倶舎論實義疏 一 緒言 二 本書の體裁 三 卷名 四 安慧と其の倶舎論の釋 五 漢譯本安慧の倶舎論實義疏 六 譯述の體裁 七 譯文の特徴 八 本書書寫の時代 九 本書に見ゆる諸種の識語 十 譯述 後記 トルコ文華嚴經の斷簡 日本に傳はる波斯文に就て 新出波斯教殘經に就て 一 教義上より見たる殘經の性質 二 殘經の價値(其の一部の轉寫) 三 經中に見ゆる特種の語に就いて 景教經典一神論解説 景教經典序聽迷詩所經に就いて 一 緒言 二 體裁 三 現存せる漢譯の景典 四 殘經の轉寫 五 殘經の文體文字及び時代 六 殘經の内容及び性質 七 二三の章句についての聖書との對照 八 結語 景教經典志玄安樂經に就いて 一 緒言 二 體裁 三 内容の要約と本文の轉寫 四 經典の性質 五 結語 大秦景教大聖通眞歸法?#123;及び大秦景教宣元至本經殘卷について 一 大秦景教大聖通眞歸法?#123; 二 大秦景教宣元至本經殘卷 三 兩殘卷の識語及び題名 ル・コック氏著摩尼教遺文卷三(Turkische Manichaica aus Chotscho III von Prof. A. von Le Coq) 吐魯番出土 回鶻文摩尼教徒祈願文の斷簡 漢譯の佛典について 釋迦牟尼如来像法滅盡之記解説 書後 唐故三十姓可汗貴女阿那氏之墓誌 波斯國酋長阿羅憾丘銘 漢蕃對音千字文の斷簡 音譯に關する注意 契丹文字の新資料 華夷譯語の編者馬沙亦黒 五體清文鑑 一 前書き 二 五體清文鑑の由来 三 五體清文鑑 清文鑑和解・飜譯満語纂編解説 蒙古族の宗教的風俗習慣 附蒙古の巫人 北方民族の間に於ける巫に就いて トルコ族と佛教 天と[示天]と祁連と 舞樂の渾脱といふ名稱につきて 雜纂 ペリオ(Pelliot)氏の中央亞細亞旅行 敦煌石室遺書發見の次第 大谷探險隊の成果 諸國の探險遺物の研究 二樂叢書第一號を讀む 西域考古圖譜 中亞史研究資料の探訪 樹下人物圖について 外蒙古におけるコズロフ氏の發掘 莫斯科抄書の思い出 史料蒐集家としての内藤博士 桑原博士「東洋文明史論叢」序 白鳥博士の思い出 濱田君の追憶 OBITUARY NOTE Kosaku HAMADA 東方文化研究所と狩野博士 ラードロフ博士 レヰ゛ー博士の憶出 我が國の東方學とペリオ教授 最近露都通信 其の一(八月三日發)其の二 アレキサンダー三世博物館 露都到着の前日開戰前の四五日戦時の博物館廻りアレキサンダー三世博物館純露西亞畫人種博物館コズロフ大佐の蒐集品帝室博物館エルミタージュ繪畫と貨幣博物館の利用觀覧者の群れ旅の思い出 英京の一隅より 匈牙利の夏の旅 巴里でした正月 塞北行紀の一節 書き抜きを探しながら 聚樂廻り 賢所御神樂の儀 あとがき 索引 佛文要約 口繪圖版 第一圖 回鶻文女子賣渡文書 第二圖 回鶻文法華經普門品の斷片 第三圖 回鶻譯本安慧の倶舎論實義疏 第四圖 トルコ文華嚴經の斷片 第五圖 日本に傳はる波斯文(南蠻文書) 第六圖 景教經典志玄安樂經 第七圖 景教宣元本經 第八圖 回鶻文摩尼教徒祈願文の斷簡 第九圖 釋迦牟尼如来像法滅盡之記 第一〇圖 唐故三十姓可汗貴女阿那氏之墓誌(拓本寫眞) 第十一圖 漢蕃對音千字文 第十二圖 大金皇弟都統經略郎君行記 第十三圖 契丹文字墓誌銘(書寫) 第十四圖 清文鑑和解・満語纂編 第十五圖 樹下人物圖 文中圖版 回鶻文天地八陽神呪經 留美楊自也甫博物館藏經世大典(裏面解説) (02-11-2005 11:16 AM) 【飞霜】 「突厥毘伽可汗碑文の紀年」 「突厥毘伽可汗碑文の紀年」 岩佐精一郎 『東洋學報』第23卷第4号 昭和11年8月発行 東洋協会學術?#123;査部 全文 突厥毘伽可汗碑文の紀年 岩佐精一郎 一八八九年以來北蒙古の諸地(シベリア方面は除いても)に於いて發見せられた突厥文字の碑文は既に相當な數に達し、执蔚冥速Y料を増加しつゝあつて、北狄史研究の上に貢獻してゐることは云ふ迄も無い。就中、質に於いても量に於いても最も勝れたものは、最初にヤドリンツェフ氏によつてオルホン河畔Kosho-zaidamに見出され、露芬兩國遠征隊によつて實査され、遂にトムゼン氏によつて解讀された記念的な突厥毘伽可汗碑及び闕特勤碑の二つに如くはない。さうして此の兩碑は、他の諸碑文の年代吟味が困難であるに對して、明白に其の碑の主人公の年齡による紀年が附されてあり、而も此の主人公は兩人共に漢史に知られてゐる突厥の君主若しくは元勲である爲めに、其の歴史的解釋が最もなし易い點に於いて重大な特質を有してゐる。かゝる意味に於いて總べての古突厥碑文の史的註釋は先づ此の兩碑を出發點としなければならないのであり、此の兩碑の史的註釋は第一に兩碑紀年の決定を絶對的基礎とするものである。故に此の研究は始めトムゼン氏によつても試みられたが、最も精細に紀年のみを對象として論究したのが、墺のマルクワルト氏の「古突厥碑文紀年考」(Die Chronologie der Altturkischen Inschriften, Leipzig 1898,)である。これと前後して當時の支那學の第一人者ヒルト氏がまた「暾欲谷碑文研究」(Nachworte zur Inschriften des Tonjukuk, Petersburg 1898,)を出刊したが、氏は案外にも、「遺憾乍ら漢史料と究厥碑文(兩碑を指す)との年代の比較は確實なる結果には到達しない」と云ひ、纔かに其の一部分數例を通鑑綱目の記事に對照せしめた ---------------------[End of Page 五四五]--------------------- に止まつてゐた。其の他斷片的にはマ氏の前にバリトーリド氏があり、後には我が羽田博士の精到な一部の論及が存するが、概して一般には紀年全般を論じたマ氏の考が權威とせられ、専ら其の紀年が踏襲せられてゐる。事些末な問題ではあるが、碑文の紀年を決して、漢史との對照を試み、互に其の闕を補つて行くことは碑文研究の第一歩でなければならない。茲に禿筆を呵して主として議論の對象とするのは、右のマルクワルト氏の研究である。 始めトムゼン・ラドロフ・バリトーリド時代には古突厥語に特殊な數詞の讀方(一位の數が前へ、十位の數が後へ來て、其の十位の數は十だけ多い、一-廿とあれば十一の事である)が理解されず、從つて其の紀年は或は誤記とされ(パーカー氏)、或は無秩序に記されたものと觀られてゐた。然るにマ氏はトルコ學者バング氏の説に基き、其の紀年の順序が正當なものである事を立證し、進んで各紀年即ち可汗及び特勤の年齡を唐の紀年と比較對照せしめたのである。氏は碑文の記事とJulien, Deguignes, Bitschurin 諸氏によつて成された唐史料の譯文とを對比する事によつて、略ゞ基準とすべき正確らしき年代を次の如く定めた(其の理由は各條の論述の際に譲る)。 可汗十四歳、(特勤 缺 )……西紀六九八(武后聖歴元年) 可汗十八歳、(特勤十六歳)……西紀七〇一(武后長安元年) 可汗 同、 (特勤十七歳)……西紀七〇二(武后長安二年) 可汗廿二歳、(特勤廿一歳)……西紀七〇六(中宗神龍二年) 可汗三十歳、(特勤 缺 )……西紀七一四(玄宗開元二年) 可汗卅三歳、(特勤 缺 )……西紀七一六(開元四年) 可汗 缺、 (特勤四十七歳)…西紀七三一(開元十九年) 可汗五十一歳、(特勤 缺 )…西紀七三四(開元廿二年) 右の年齡と紀年とを對照すれば瞭かな通り、兩者は必ずしも一々は一致せず、時に一年の差を生ずる。よつて氏は突厥の年壽の數へ方が年暦の更改によらずして、其の生年月を基礎とするものなるべきを推 ---------------------[End of Page 五四六]---------------------

測し、其の矛盾を?#123;和したのである。かくて其の結果は可汗は五十一歳にして西紀七三四年に?#123;し、西紀六八四年に生れ、闕特勤は西紀七三一年四十七歳を以つて?#123;し、西紀六八五年生誕した事を推測したのであつた。但しヒルト氏・羽田博士等は斯かる西洋式の突厥の年壽の數へ方を疑ひ、寧ろ支那流に年暦の變改によると見る方が、突厥の文化程度を考慮する時妥當と思はれると云はれてゐるが、その確否を證明すべき資料は未だ十分でない。自分は迂遠なやうだが、こゝに、再び碑文と漢史との紀年の一々の對比から吟味を始めたいと思ふ。 一言お斷りする事は、可汗碑・特勤碑は殆ど同文であつて、特勤碑の記事は西紀七一五年?に終り、後は七三一年の?#123;年あるのみであるが、可汗碑には七三四年の可汗死去に至るまでの事件が記載されてあり、含む所豊富である。特勤碑は主人公の功業の記述だけが可汗碑より多い部分もあるけれど、紀年其の物としては別な資料を呈しない。故に本編は故意に「毘伽可汗碑文の紀年」と題し、闕特勤碑には及ばなかつた。併し事實は同時に議論の對象とした譯であつて⒖珊工文挲gを一年減じたものが特勤の年齡と御承知下されば宜しい。勿論闕特勤のみにある僅少な事實の類は、本文に於いて必要ある限リ論及しようと思ふ。 併し紀年論に先立つて決しなければならない基礎問題が一つある。それはバリトーリド・ヒルト・羽田及びマルクワルト諸氏によつて取上げられた突厥歳首諭、それに關聯して突厥の月(Monat)の稱呼の問題である。マ氏はそれを直接紀年論に利用こそしなかつたが、突厥の歳首が唐のそれと同一なりや否やによつては、當然碑文と漢史との對比の際に拂はるべき考慮は異らなければならない。今マルクワルト氏の考へた歳首論を、便宜上羽田博士の要約文によつて左に轉載する。(東洋學報九の一、一四七-一四八頁) 碑の突厥文(INE)に闕特勤の碑は猿の年第七の月(突厥にては歳首より數へて初の月を大の ---------------------[End of Page 五四七]---------------------

月 uluγ ai といひ、其の次の月を小の月 kucuk aiといひ、之に次げるものを第一の月 birinc ai といひ、以下順次第十の月迄を數へしものなること、Al Beruni の記する所なり、されば第七の月といへば、歳首より數ふる時は第九月に相當するものなり)第二十七日に建てたりと見ゆるに、同碑の漢文の方には「開元廿年歳次壬申十月辛丑朔七日丁未建」と記さる。此の漢文の年次は誤にて月日は七月七日なるべきことThomsen の論じたるが如し。また碑の突厥文(II.S.10)に默棘連(毘伽)可汗の死せし時を、犬の年第十の月(歳首より數ふれば第十二月に當る)第二十六日と記せるにThomsen の引ける漢史料によれば、此の事は八月の事件なり。外にまた漢史に六月と記さるゝものが、碑文には第七の月(歳首より數ふれば第九月)と記さる。帥ち之を對比すれば、 突厥 支那 27 IX(jatinc 第七の義) 7. VII 26 XII(onunc 第十の義) VIII IX VI なり、されば突厥の年の初めは支那のようもほぼ三ヶ月程早かりしものなり。 此の突厥の歳首は唐のそれよりも三ヶ月程早しと云ふ説にはヒルト氏及び羽田博士によつて漢史の引用を謬れること、從つて其の議論の疑ふべきことが擧げられてゐる。ヒルト氏は、突厥毘伽可汗の死は册府元龜卷九七五によれば、開元廿二年十二月庚戌(廿三日)とあるを指摘し、信ずべき記戴なるを云ひ、突厥碑文の犬の年第十の月(即ち十二月)廿六日より數ケ月早しとする論據は誤であつて、寧ろ兩者の歳首は等しかつたものと考へ、周書突厥傳に年暦を知らなかつたとあり、通鑑綱目に隋文帝が開皇六年正月庚午に暦を突厥に班つた事が見える(正しくは隋書卷一本紀に據るべし)ことを述べ ---------------------[End of Page 五四八]---------------------

て、謂へらく「古代突厥の暦は組織の原則は支那の暦と一致すべきものにして、唯一の明白なる相違は歳及び月の稱呼(思うふに鼠の年・牛の年と呼ぶ如き、一・二月を大月・小月とし、三月以下を一月二月と云ふ如きを指すならむ)に存すべきのみ」と結論せられた(Nachworte. ss. 124-126)。此の論を一層精密にせられたのは羽田博士である。博士はヒルト氏と同じく可汗の?#123;年月が漢史と突厥文と略ゞ等しい事を述べられると共に、從來「開元廿年歳次壬申十(七)月辛丑朔七日丁未建之」と讀まれてゐた闕特勤碑竣工の日附が干支の上より九月七日であるべき事を道破せられた。(從來七月又は十月と?#123;まれてゐた七、十の字は頗る暖昧だつたのである。Thomsen, Inscriptions de l'Orkhon dechiffrees. p.215, E. H. Parker 氏英譯參照)。故に闕特勤碑建立の年代は漢文九月七日と突厥文第七月(即ち九月)二十七日と殆ど相同じき日附である事が瞭かとなつた。かくて羽田博士は「(マ氏が)突厥の歳首が唐のよりも三ヶ月程早かりしならんと見たるは據無き説なるを知ると共に、反りて兩者の歳首はほヾ同時なりしを知り得べし」と論斷せられたのである。(東洋學報九の一、pp. 47-49) けれども問題は未だ決せられてゐない。何となれば、漢史若しくは漢文の日附と突厥文の日附とは月を同じくすることは立證せられても、其の日は却つて漢史の方が早いと云ふ現象は説明出來ないからである。ヒルト氏は可汗は大臣梅録啜に毒弑せられたが、其の崩ずる前に起つて叛黨を誅滅したと云ふ漢史の所傳を引き、日附の相違は此の間に生じたるものなるべしと解釋せられた(Nachworte ss. 124)。羽田博士は「報導の間に於てかゝる相違を生じたるものと見る可きか、或は更に他の理由を求め得べきか、更に將來の研究を待たざるべからず」と説いてゐられる。(前掲P.49.)然るに報導の間の相違と考へ、若しくはヒルト氏の如く可汗最後時の數日間の持續を假想(此の假想が極めて奇拔なるは別としても)することが全然不可能なる反證が存在する。 ---------------------[End of Page 五四九]---------------------

册府元龜に可汗の死を開元廿二年十二月庚戌(二十三日)に繋けてゐることは勿論事實である。けれども其の記載の全文册府元龜卷九七五、外臣部、褒異篇 は、實に左の如くなのである。 (開元二十二年)十二月庚戌(廿三日)、突厥毘伽可汗小殺爲其大臣梅録啜所毒而卒、帝悼之、輟朝三日、勅曰‥‥朕聞其永逝、良用悼懐、務廣宿恩、以制權禮、宜令所司擇日擧哀、甲寅(廿七日)、於[各隹]城南門擧哀、命宗正李[イ全]申弔祭焉。 右によれば十二月二十三日可汗?#123;すと知るや、日を擇んで哀を擧ぐべきことを勅し、それより「輟朝三日」の翌日十二月廿七日其の事が實行せられたのである。然らば十二月廿三日なる日附は可汗崩御の日時ではあり得ない。蓋し當時の突厥の都なる漠北オルコン河畔の可汗の牙帳より磧を度つて唐都長安に至るまでには相當の日子を必要とするから、十二月廿三日は必ず可汗死?#123;の公報が突厥より到着した日でなければならぬ。でなければ勅を發し擧哀の禮を擧げることはあり得ない。されば資治通鑑には正しく之を解して開元廿二年十二月の條に可汗の死を記すと共に、明瞭に「庚戌(廿三日)、來告喪」とあるではないか。況して唐は事實これより以前に於いて可汗の死を承知してゐたらしい證跡すらある。開元の宰相張九齡の曲江文集(卷十四)に「賀聖料突厥必有亡徴、其兆今見状」と題して、 右林招隱宣勅示臣等、張守珪云、契丹婦女屈將從突厥出來、知可汗死是實、又云、黄頭突厥與默啜突厥爭[言氣]兵馬欲闘驚軍、屈將然得走來者、參験前後、從突厥來者説事多同、況此婦人、尤為指實、死既非謬、天實誅之。(下略) 右の年月は明でないが、張守珪が幽州長史・河北節度副大使となつたのは開元二十一年であり、(舊唐書卷百三同傳)、張九齡が中書侍郎並同中書門下平章事となつたのが開元廿一年十月で(通鑑)、中書令となつたのが廿二年五 ---------------------[End of Page 五五〇]---------------------

月である(同書)。そして廿四年には知政事を罷められた。其の間の突厥可汗の死として傳へらるべきものは毘伽可汗及び之に繼いで立つと同時に卒したらしい伊然可汗(通鑑考異、開元廿二年十二月條參照)しかない。而も後者の死は毘伽可汗を弔祭のための李[イ全]遣使中の事だから、契丹人から之を聞いて慶賀しよう筈もない。随って問題の風説は、毘伽可汗の死についてであること疑ひない。さうして此の報が可汗死?#123;の公報の着しない前であるのは文意に徴して瞭かであるから、十二月廿三月以前に、否此状の書かれる以前に既に可汗の死が朧氣に傳聞されてゐたのである。恐らく事は大臣の陰謀に起り、部中騒動して之を外國に知らす事を始めは避けてをつたのであらう。事情斯くの如しとすれば、毘伽可汗の實際の死が十二月庚戊(廿三日)より相當溯るべきは明々白々である。にも拘らず突厥文に於いては十二月廿六日の?#123;と見える。漢史の月附が遲れてゐるのなら問題無いが、却つて其の逆であるとすると、如何なる説明を用ひても、兩者の時日を一致せしむることは困難である。否、啻に唐と突厥との歳首相等しとする論據を破碎するのみか、却つて突厥の歳首が唐のよりも(三ヶか否かは別として)早いとするマ氏の説を支持しさうである。併し乍らマ氏の説も他に何等の根據が無いのだから、之を最も穏當に解釋せんとすれば、此の突厥碑文に見える可汗死?#123;の日附は實際のそれを隱蔽した後のものと見るか、或は既にバリトーリド氏が疑を存したが如く、Al Beruni の傳へたる突厥トルコ族の月の數へ方なるものが古突厥には適用されないかの何れかの場合を想定する外は無い。けれども十二月廿三日唐に使節が着し喪を告げ、廿七日唐帝が擧哀の禮を行つてゐるに據れば、第一の場合はあり得ざる所である。然るに第二の可能性は甚だ多い。先づバリトーリド氏の説を聽かう。 バ氏の大意に曰く、「Al Beruni は後世の著述家で ---------------------[End of Page 五五一]---------------------

あつて、(筆者曰く、彼はヒヴァ(Khwarizm)に生れ其の參議官たり、後ガズニ朝に質となり之に仕ふ[973-1048 A. D.〕)其の指す所のトルコ族は八世紀の東突厥とは年代も部族も相違してゐる。然も其の記載はマ氏自ら認むる如く配列の順位を失してゐるから、uluγ ai, kucuk aiが正月・二月なりや、十一月・十二月なりやは遽かに斷じ得ざるものがある。(其順は大月、小月、一月、二月、六月、五月、八月、九月、十月、四月、三月、七月としてある)。此の決定は更に突厥碑文の新資料に待たねばならぬが、蒙古時代の Uiγur は確かに十一月なる稱呼を有してをり、其の歳首もRashid-eddinによれば支那に同じい」。(Die altturkischen Inschriften und arabische Quellen. ss. 3-4.) 先づ一月二月を大月・小月と呼ぶ事は支那の暦法とは全く一致しないことであるが故に、ヒルト氏が突厥暦を以つて支那暦の繼受と認めながら、此の月の稱呼を許容したことは背理でなければならぬ。Al Beruni の記載が果して十一世紀のトルコ人の實際の稱呼を傳へたものか、或は支那暦にもある月の種類としての大月・小月を一般月名と誤認したのではないか、また實際かゝる稱呼があつたならば、それは何の理由に據るか、其等の問題も考慮せらるべきであらうが、筆者は到底それに觸れる力を有しない。唯唐代の突厥に支那とは全然組織の異なつた暦法が創造され、又は傳へられて行はれたと見ることは殆ど不可能である。隋の暦が班たれた事實は暫く置き、暦が必要上の産物であつて、便宜に就くものなることは暦法史の明かに示す所である。況して農耕の民ならざる遊牧の部族が獨特の暦を發達させる譯がなく、必ず他の文明農業國から繼受したものであることは疑無い。そして彼等は其の勃興時代より唐の邊塞に接して遊牧し、殊に唐初五十年間は其の臣妾として邊塞の間に住したのである。此の相接し相對立し、最も文化交渉の深かつた兩民族が全然相關せざる互に獨特な暦法を有してゐたとは常識上考へ得られない所である。若し突厥の暦が少くも其の組織に於いて支那のそれに倣つたものとすれば、大月・小月 ---------------------[End of Page 五五二]---------------------

の稱を一・二月に充てることもあり得ない所である。私はさう考へて、原則として唐代の突厥に大月・小月の存在したことを否定したい。 バルトーリド氏の要望せる新資料の出現は、突厥に關する限り、未だ得られない。今存する所のものは可汗・特勤兩碑の上述の二三條が、突厥の月名の貴重な實例に止まるのみであつて、それにはuluγ ai, kucuk ai の名がない。尤も十一月・十二月の稱も見えないが、そのことを以つて十一・二月の無かつた證據に出來ぬことは勿論であらう。否實は毘伽可汗?#123;して十年を出でずして起つた唐代の囘鶻の、而も天寶至徳時代の如き初期に於ける、其の遺文には明白に十一月の稱の存することが指摘出來るのである。それは一九一三年ラムステッド氏によつて發表された北蒙古Sine-ussu 碑文即ち囘鶻第二代の葛勒可汗磨延啜(天寶五載746-乾元二年759在位)の紀功碑であつて、其の南面第一行にbir jigirmincaj sakiz jigirm 〔ika〕(十一月十八日)なる日附が嚴存する、(J. J. Ramstedt, Zwei uigurische Runeninschriften in der Nord-Mongolei. J. S. F. O. Vol. XXX, pp. 24-25)。囘鶻と突厥とは其の文化の性質に於いて多少異つてゐたかも知れないが、其の支配する所は依然たるトルコ族である。暦の如き習慣が一朝にして其の組織の原則を變更せしむる如きはあり得ないと考へられる。况して古突厥語に特有にして後のトルコ族に見られない特種な數詞の呼び方が囘鶻碑文にも繼承されてゐる(實例は前引のbir jigirminc[十一]にも明かである)明瞭な例すらある。囘鶻に其の勃興時代から一月-十二月の稱呼の存する事が證據立てられた以上、それと殆ど同時期の突厥にも亦これあることを認めてよいと考へる。よつて私は前の突厥文の毘伽可汗の死はoninc ai 即ち十月廿六日と解釋し、それが約二ヶ月を經て十二月廿三日に至り唐に告喪の使節が到着したものと見る。さうすればあらゆる矛盾は一切解決されよう。闕特勤碑・突厥文及び漢文の兩者の竣工日の相違は文字通り同 ---------------------[End of Page 五五三]---------------------

時に完成したものでないと解しさへすればよい。 以上突厥の暦に於ける歳首が唐の歳首と略ゞ相等しかるべきことを論じた。然らば兩者の紀年の對比に於ける一の障害は取除かれた譯である。これより本題に取掛らうとすれば、先づ第一に決しなければならないのは可汗の生卒年である。碑文(II S10‥Iは可汗碑、IIは特勤碑、ENWSは各碑面の方向)に 〔aqanym qaγany] t jyt onync aj alty otuzqa uca 〔我父可汗〕 犬年 十月 廿六日 神逝り bardy alγa zynjyl bisinc aj jiti otuzqa juγ arturtim. ましぬ、猪年 五月 二十七日 葬を 我營みぬ。 とある。犬年十月二十六日が開元廿二年同月日、猪年五月廿七日が翌廿三年同月日であることは、上に考へた歳首論及び其の資料によつて既に明白な所である。不幸にして當然記載されてゐた筈の可汗年齡に關する部分は缺落の爲めに之を知り得ない。たヾ此の記事の前(II S 9)に man toquz jigirmi jyl sad olurtym toq[uz jigir]mi 我、十九年 「設」に 上りゐたり、十九年 jyt[qaγan otu]rtym, il tutdym. 可汗に 上り居て 國をうしはぎたり。 とあり、可汗默棘連が叔父默啜可汗によつて Tardus sad(右廂察)となつたのは碑文によれば、其の十四歳の時であると云ふ(IE17, IIE15)。マルクワルト氏は之によつて(14-1)+19+19=51と算定し、可汗の卒年を五十一歳と定め(Die Chronologie. ss. 13-14,55)、ヒルト氏も之に從つてゐる(Nachworte. s. 93)。併しこの算定には疑問がある。十四歳より十九年間「設」(sad)たりしとせば、可汗に即位したのは三十二歳であり、三十二歳より十九年にして?#123;したならば、五十歳でなければならぬ。然らば實際問題として可汗の卒年五十歳と見で差支へないかと云ふと、それには別に反證があつて、開元廿二年十月?#123;した可汗は矢張り五十一歳であつたに相違ない。その證據と云ふのは可汗五十 ---------------------[End of Page 五五四]---------------------

歳の年代の比定である。II S 7-8に alig jasyma tataby budun qytaida ad [‥‥] 五十歳にtatabyの 民がqitai に ‥‥ lkr taγqa [‥‥]quγ sanun basadu tort tuman Lkr 山に Quγ將軍を 將とし 四萬の su kalti tonkas taγda tagip toqydym. 軍 來りたりTongkas 山にて 撃ちて 却けたり uc tuman sug[olurti]m. 三萬の 師を[斃]したり b[irtuman?] ‥‥ rsr [‥‥] oktim tataby 一萬? tataby [‥‥] o[lu]rti. uluγoγlym aγryp joqb olca ‥‥ 斃したり 我長子 病みて 失せぬれば quγ sanunig blbl tika birtim. Quγ將軍を balbalに立て 與へき。 といふ一條があるが、tatabyが奚、qytaiが契丹であることは最早疑ふ餘地がないが、Quγ sanunについては、トムゼン氏は最初は Qu-sanun と讀み、契丹の唐に對する叛魁として著名な可突干ではないかと疑ひ(Inscriptions de l'Orkhon dechiffrees, p. 183, n. 106)、マルクワルト氏には説がなく、單に此の事件を開元廿二年にかけ、トムゼン説を是としてゐる(Die Chronologie. s. 28, s. 55)。併し開元廿二年に殺された可突干は其の親突厥派たるが故に、親唐派の別酋李過折に殺され、契丹は擧げて唐に降つたのであつて(舊唐書卷一〇六、張守珪傳)、突厥が戰つて之を捕へ、可汗長子のbalbal(明解なけれど、葬禮の際の犠牲なる如し。ラドロフ氏は之を Steinpfeiler と譯し、トムゼン氏も周書突厥傳の「葬訖、於墓所立石建標、其石多少、依平生所殺人數」の石に擬す、從うべき歟)となす如き事はあり得ない。可突干は寧ろ常に突厥の援を受けて唐に反抗してゐた契丹の[黒吉]帥であつたのである。然るにヒルト氏が右の事件を以つて通鑑綱目に見える開元廿一年三月(正しくは閏三月)唐將郭英傑が契丹を伐つて戰?#123;した記事に比定し、Quγ sanun は郭(英傑)將軍なりと考へたのは(Nachworte. s. 92.)確に正鴻を得たものである。資治通鑑の原文を引くと、左の如く (開元廿一年)閏(三)月癸酉(六日)、幽州道副總管郭英傑、與契丹戰于都山敗死、時節度薛楚玉遣英傑、將精騎一萬及降奚、撃契丹、屯於楡關 ---------------------[End of Page 五五五]---------------------

之外、可突干引突厥之衆來合戰、奚持兩端、散走保險、唐兵不利、英傑戰死、餘衆六千餘人、猶力戰不巳、虜以英傑首示之、竟不降、盡爲虜所殺。 とある。即ち開元廿一年閏三月六日以前に於いて幽州節度薛楚玉が郭英傑將軍をして降奚を率ゐて契丹を伐たしむるや、契丹の可突干は突厥の衆を引いて之を邀へ討ち、都山に戰つて英傑を仆したのである。碑文の「tatabyの民がqitaiに‥‥」とあるのは降奚の契丹に對する反抗が記されたものに相違なく、又 Quγ sanun の軍を斃して後に「tatabyを云々」と見えるのは首鼠兩端を持した降奚の運命を語るものでなければならぬ。Tonkas なる山も恐らくは漢史の都山と見てよいであらう。毘伽可汗長子の死の年代の明記はないが、張九齡の曲江文集(卷十四)の「賀突厥小可汗必是傷死状」は之を語るものである。ラドロフ氏もトムゼン氏もマルクワルト氏も、ヒルト氏すらもが、此の征伐を突厥が奚・契丹に對する戰と見たのは誤りで、契丹を援けて奚と唐を破つた事件とすべきは勿論である。かくして、毘伽可汗五十歳が、既に開元廿一年閏三月六日以前、恐らくは其の二三月の頃にあつたことは動かない。さうすると、開元廿二年十月に?#123;した可汗が、時に五十一歳であつたことも、亦動かし得なくなる。 可汗の行年は既に決した。然らば前述の算定に疑問を生ずる所の可汗の設たりし年代、可汗即位の年代を次に決しなければならぬ。可汗の即位は云ふ迄もなく、叔父默啜可汗の死?#123;に次いで行はれたのであつて、例へば舊唐書玄宗本紀に (開元四年六月)癸酉(廿九日)突厥可汗默啜爲九姓拔曳固所殺、斬其首、送于京師、默啜兄子小殺繼立爲可汗。 とある如く、開元四年にかけらるべきことは明瞭である。默啜可汗は九姓を伐つて之を破り、歸路獨樂河(Tola)畔に於いて備無きに乗ぜられ、拔曳固のため ---------------------[End of Page 五五六]---------------------

に襲殺せられたのである。可汗の死は恐らく突厥に混亂を招くべきであつたらうが、默棘連の弟闕特勤舊部を鳩合し、默啜の子弟親信を襲滅して、默棘連を可汗に即けたと云ふ(通典卷一九八)。故に毘伽の即位は直接可汗の死に接續するのではないと假定しても、其の間に多くの時日を要し、漠北を混亂せしめたのではない様である。少くとも其の即位は十月以前にあつた。蓋し當時河北に安置せられてゐた突厥降戸(開元二年投降)は毘伽可汗立つと聞き、相率ゐて唐に叛き之に歸せんとしたので、唐は之を河南に徒し、故土との聯絡を絶たんとするや、十月甲辰(二日)投戸起つて叛し、唐軍の討伐を受けたと云ふ(資治通鑑)。磧北の安定は必ず其の以前であり、可汗の即位は大略開元四年(西紀七一六)の中頃と見なければならぬ。既に開元廿一年の初め五十歳である可汗は、開元四年中頃は卅三歳に相當する。さうして碑文に於ける可汗三十三歳に於ける記載は瞭かに此の推定に合致するものである。II E 34-35 に、 [tanri]jarlyqaduq ucun ozim otuz artuqy u 天の惠みあり し故に 我自ら 三十餘り 三 〔cjasyma‥‥qaγan‥‥〕 kuc〔‥‥〕igidmis 〔歳に 可汗‥‥‥‥〕 力?〔‥‥〕建てられたる qa[γan‥‥ja]nyl dy [‥‥o]za tanri yduq 可汗 料トガあリき、‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥上天及び聖なる jir sub 〔‥‥‥qa]γan quty taplamadyarinc‥‥ 地水の神(突厥の守護神)‥可汗の福シアハセよくなかりき〔下缺] 右の記事は缺落の多い爲め、頗る解釋に困難であるが、ラドロフ、トムゼン兩氏以下皆之を可汗即位の記事と見たのは文意の上からも、上記の年代の上からも、正しく當を得た解釋である。後半に見ゆる可汗を、トムゼン氏は最近之を默啜の子小可汗匐倶(bogu qaγan)かと疑つてゐるが(ZDMG. 1924. s. 156)、これは舊著に於いて默啜可汗と見、マルクワルト氏も之を説いた如く、默啜に比定すべきことは勿論である(Thomsen; IOD, p. 181. ---------------------[End of Page 五五七]--------------------- n. 99 Marquart; Die Chronologie. s. 20)。果して然らば、毘伽可汗は卅三歳開元四年即位し、十九年の後五十一歳、開元廿二年を以つて?#123;したのである。若し卅三歳の可汗が、時に十九年間「設」たりし後のことすれば、可汗が「設」となつた年代は十五歳でなければならない。然るに碑文の記載によれば、可汗は十四歳にして「設」となつたのである。I E 17, II E 15に、 tort jigirmi jasymqa tardus budun oza sad 我 十四の歳に Tardus の民の 上に「設」 oturtym(II) 〔artim(I)〕 に上れり。 (たりき) と見える。これは十四歳と云ふ日附を誤ったのか、十九年なる年數を算へ違へたのか、何れかでなければならぬ。右の事實に關しては、マルクワルト氏は Stanislas Julien を引き、698 A. D. 默啜可汗が其の弟咄悉匐を左廂察、骨咄祿の子默矩を右廂察に任じたとある默矩が毘伽可汗默棘連であり、右廂察がTardus Sadであることを論證した(Die Cronologie, ss. 13-14.)。此の比定は正確疑の無いものである。但し氏は698A. D. (武后・聖暦元年)なる年代を可汗十四歳に充てたけれども、Julien の據る圖書集成邊裔典は今參照の便宜を缺くが、少くも自分の知る限りでは此の事件を聖暦元年にかけた記録は存しない。マ氏が Deguignes には699 A. D. と見えると述べてゐる如く、紀年を缺いた唐書突厥傳は兎も角、通典邊防部、舊唐書突厥傳、資治通鑑には聖暦二年(西紀六九九)とし、唐會要(卷九十四)北突厥の條には聖暦二年十月なりと記してある。ヒルト氏も通鑑綱目を引いて聖暦二年八月に充てた(Nachworte. s. 92)。故にマ氏の六九八年説は根據疑はしいと見なくてはならぬ。 けれども漢史の記する聖暦二年(西紀六九九)は七三四年五十一歳で?#123;した可汗の十四歳にも十五歳にもなり得ない。それは唐人が塞外の事情に疎かりしを證するだけで、之を以つて碑文の記載を疑ふに ---------------------[End of Page 五五八]---------------------

は當らぬ。何れにしても可汗の「設」となつた年代は十四歳を正しとすれば、武后神功元年(西紀六九七)なるべく、十九年なる年數を重視すれば、十四歳は誤記であつて、正しくは十五歳即ち武后聖暦元年(西紀六九八)に於ける出來事であらう。其の何れが誤記であるかは決し得ないが、何れか一方が眞相を得てゐることは確かである。さうすれば可汗の生年も嗣聖元年(西紀六八四)である事疑無い。 以上は可汗の生卒年とそれに關聯する二三の紀年を決したものである。茲までは諭證の手段は全然異なつてはゐても、マルクワルト氏の考ふる可汗の生卒年と略ゞ同じ結果に到達した。併しながらマ氏は突厥の年壽の數へ方が生月日を基とすると見る。自分は之を批判せんとする。路は再び二つに岐れなければならない。先づ可汗生卒年の決定によつて、次の事實は瞭かとなつた。 可汗は西紀六八四年に生れ、西紀七三四年に五十一歳を以つて?#123;した。碑文の紀年は總べて此の原則の適用を受けなければならない。但し突厥の年壽の數へ方が暦年の更改によるや、生誕の日によるやは尚ほ不明であることを考慮に加ふべきである。 それでは問題となる碑文の紀年は何々か。 a 八歳 父骨咄祿可汗(Elteris qaγan)の徂落。 *b 十四歳 默棘連(毘伽可汗) Tardus Sad と成る。 (五?) c 十七歳 默棘連の Tangut 侵掠。 d 十八歳 默棘連の六姓昭武 Soγd 經略。 e 同 默棘連の唐將 On 都督軍撃破。 f 二十歳 默棘連の Basmil 討伐。 g 廿二歳 默棘連の唐侵入、Caca 將軍を破る。 h 廿六歳 Cik, Kirgiz 等の叛、默棘連の Cik 討伐。 i 廿七歳 默棘連の Kirgiz 征討。 j 同 默棘連の Turgis 經略。 k 三十歳 默棘連の Basbaliq 攻襲。 ---------------------[End of Page 五五九]---------------------

l 卅一歳 Qarlukの叛。 m 不明 Toquz Oγuz の叛、Oγuz との戰。 n 卅三歳 默棘連の可汗即位(毘伽可汗)。 o 同 可汗のOγuz經略、Oγuz の唐投降。 p 卅四歳 Oγuz の唐歸降。 q 不明 毘伽可汗の Qitai, Tatabi 征討。 r 不明 毘伽可汗の Qarluq 征討。 s 不明 毘伽可汗の Kacin 遠征、唐との戰。 t 卅八歳(冬) 毘伽可汗の Kitai 征討。 u 卅九歳(春) 毘伽可汗の Tatabi 征討。 v 五十歳 毘伽可汗の Tatabi 征討、Quγ將軍撃破。 w 五十一歳、 毘伽可汗の崩御。 [備考〕は上に論定し終へた紀年である。年齡不明なのは碑文の缺損に據るものである。 以上の諸事件は可汗個人の事歴であるのと、漢史の記載不充分なると、漢人に塞外の事情よく通ぜざりしにより、之を漢史に比定を求むることは甚だ困難である。可能なるべき範圍も限られてゐる。併し問題の對象は特に年壽計算法に向けらるべきだから、先づマ氏のよる規準年代なるものを(既述を除き)逐條吟味せねばならぬ。 (甲)可汗十八歳の年代(Marquart, Die Chronologie ss. 11-16) Sakiz jigirmi jasyma alty cub soγduq tapa 十八の 歳、 六姓 昭武 ソグド に迄 suladim, budunyγ anda buzdym, tabγac 我出馬したり。民を そこに 撃ちたり、唐の ontutuq bis tu-man su kalti, yduk basda on (王)都督 五萬 の軍 來たりぬ、Iduq 泉にて sunusdim, olsug anda joq qysdym. 闘へり 其軍を そこにて 手痛く 破りたり 〔II E 25〕〔I E 31〕 但し闕特勤碑には更に此の下に次の如くあつて On都督は特勤に擒へられたのである。 ---------------------[End of Page 五六〇]---------------------

kul tigin jadaγyn oplaju tagdi. Kul tegin griff im Sturm mit dem Fussvolkan On tutuq jorcyn und nahm mit bewaffneter jaraqlγ lgn tutdy jaraqlyγdy qγanqa anc Hand den On tutuq mit Trabanten (?) gefangen und brachte(?) sie bewaffnet utady. zum Kagan. (Thomsen, Altturkische Inschriften aus der Mongolei, ZDMG, 1924, S. 151) [IE 32] マルクワルト氏は右の記事中の前半、即ち突厥のソグディアナ經略に關しては、タバリーが Madaini を引いて、ヘヂラ八二年(701 [2.14] -702 [2.3] A. D.)アラブの Chorasan 代官 Muhallab b. Abi-Sufra がソグドの Kiss (Kesch) を圍んだ際、其の住民は Turk の援を受けたとある記事に相當すべき事件とし、此の紀年を西紀七〇一(唐武后長安元年)と見た(ss. 15-16)。次の On 都督については、既にトムゼン、ラドロフ、バング諸氏によつて On が漢語「王」に當るべきことだけは推測きれてゐたが、之に相當する王都督は未だ見出されず、僅に E. H. Parker 氏が之を開元の名臣にして開元二年朔方道行軍大總管となつた王唆に擬定した(Thomsen, Inscription de l'Orkhon dechiffrecs, p. 196)。マ氏は其の謬りは訂したが、其の比定には頗る苦心し、結局は On tutuq は安北大都督(An-pe-ta-tu-tu)たる太子相王(後の睿宗)を指し、其の敗戰のことは唐の記録に隱されてゐるけれども、恐らく突厥が鹽州・并州等を侵した長安二年(西紀七〇二)であらうと考へてゐる(SS. 11-13)。 扨てソグド經略の問題については、マ氏の説に對して論敵バルトーリド氏の賛成もあり(Die altturkischen Inschriften und die arabischen Quellen, SS 14-16; Turkestan down to the Mongol Invasion. p. 186)、自分は之を論ずる資格がない故に、兩權威の説に聽從したい。けれども次の On tutuq に關するマ氏の説は到底從ひ得ないと思ふ。第一に太子相王は聖暦二年八月より神龍元年三月まで安北大都護ではあつたけれども、氏が之を安北大都督(An-pe-ta-tu-tu)としたのは誤 ---------------------[End of Page 五六一]---------------------

りである。都護ならば之をtutuqと呼ぶことは困難である。第二に太子たる王が親ら僅々五萬の兵を以つてIduq bas なる塞外の地に出討する筈があり得ぬ。安北大都護も長安二年五月拜した安北道行軍元帥も九月の并州道元帥も、皆遙領であつて、其の名義を帯びたに過ぎぬ。第三には其の太子相王(後の睿宗)が突厥に擒へられよう筈がない。問題のOn tutuq は必ず別人でなければならぬ。併し乍ら唐の記録では長安年間前後突厥と戰つて捕擒又は戰?#123;したと云ふ都督の名は見え無い。武后時代の記録には外戰の記事が頗る貧弱なのは記録の不備の為めであらうが、兎も角該當せしむべき事件がない。けれども、此の場合の戰闘地たる Iduk bas(聖泉)は、勿論其の位置は不明であるが、碑文には可成り出る名であつて、後に可汗卅一歳の時默棘連がQarluqと戰つた地としても見えてゐる。葛邏祿はアルタイ地方の部族で、此の際の戰闘の結果であらうが、北庭及び凉州に投降したことは後に述べる所であるから、恐らく此の Iduq bas は塞北西陲の地に相違ない。當時西陲鎭撫の唯一の都督は凉州都督に外ならぬ。然るに燕公張説の撰する「兵部尚書代國公贈少保郭公(郭元振)行状」には左の如き記載がある。 吐蕃與突厥連和、大入西河、破數十城、圍逼凉州、節度出城戰?#123;、蹂禾稼、斗米萬錢、則天方御洛城門[酉甫]宴、凉州使至、因輟樂、拜公為凉州都督、兼隴右諸軍大使、?#123;秦中五萬人、號二十萬、以赴河西。 (文苑英華、卷九七二、行状) 郭元振が凉州都督隴右諸軍大使となつたのは大足(長安)元年の十一月(西紀七〇一)だつたと云ふ(資治通鑑、同年條、册府元龜卷四二九、將師部拓土篇)。然らば突厥吐蕃の河西侵掠、凉州都督の出城戰?#123;の事件は西紀七〇一年なのである。此の都督の姓名は不詳であるが、Iduq bas が西陲凉州方面の地であり、其の年代は碑文に同年の事件とせられるソグド經略の行はれた西紀七〇一年と ---------------------[End of Page 五六二]---------------------

同じ年である所から考へて、姓氏不明の凉州都督が即ち碑文の On tutuq 王某であると見ざるを得ない。さうすれば可汗十八歳の紀年は其の兩事件共に長安元年(西紀七〇一)に當らなければならぬ。 (乙)可汗廿二歳の年代(Die Chronologie s. 3) iki otuz jasyma tabγac tapa suladim caca sanun 我廿二歳 唐にまで 我征したりCaca 將軍 sakiz tuman [su] birla sunusdim, susin anda 八萬(の師) もて 闘へり、 彼軍を 我そこに olurtim. 潰したり。〔I E 32-33. II E 25-26〕 之に該當する漢史の記事はラドロフ、トムゼン兩氏(p. 155. n. 39)も既に指摘した如く、中宗神龍二年十二月突厥が靈州の鳴沙に冦し、靈武軍大總管沙[たく]忠義之と戰ひ大敗したと云ふ唐の記録(舊唐書中宗紀、通鑑、其の他)に合致すべきであつて、そのことはマルクワルト氏も勿論之を認めたのである、(S. 3)。マ氏がラドロフによつて、Caca sunki(沙[たく]忠義)と讀んだのは謬であるが(V. Thomsen, Turcica. p. 62)事件の比定は固よりこれ以外には求め得ぬ。故に可汗廿二歳は神龍二年(西紀七〇六)であると見るのは、少くとも漢史の對比に於いては誤でない。けれども此の年代は不幸にして可汗年齡の原則とは背馳せざるを得ないのである。 突厥の鳴沙に冦した時日は唐の記録では神龍二年十二月己卯(九日)に繋けられてゐる。これは其の報告を得た日附だから、事實の日附は若干それより繰上げらるべきであらう。然るに可汗は西紀六八四年に生れたのであるから、若し年壽が(1)暦年更改により計算せらるれば、可汗の廿二歳は西紀七〇五(神龍元年)中のことであり、(2)生日により計算せられたとすれば、廿二歳は西紀七〇五(神龍元年)中の可汗生誕の日より西紀七〇六(神龍二年)中の可汗生誕日の前日にまで亙るものに外ならない。可汗の誕生せる月日は固より不明である。併しながら開元四年 ---------------------[End of Page 五六三]---------------------

十月以前に於いて既に卅三歳であり、開元廿一年閏三月以前に於いて五十歳を數へてゐた可汗は、この(2)の場合に於いても西紀七〇六(神龍二年)中に廿二歳であるのは、少くも四月以前でなければならない。然るに此の記事によれば、神龍二年十一・二月(西紀七〇六)に於いても尚ほ且二十二歳だとある。これでは假令マルクワルト氏の解釋する如き(2)の場合を假想しても、その事實は説明することが出來ない。然らば碑文の記事に對する漢史の比定が謬であるか、若しくは碑文の記述する廿二歳なる紀年が誤記であるか、その何れかであることを必定とする。前者の場合は事實困難だから、私は之を後者の理由に歸し、碑文に於ける廿二歳は廿三歳と訂正するを以つて妥當と考へるのである。 (丙)可汗卅歳の年代(Die Chronologie, ss. 21-22) otuz jasyma bisbalyq tapa suladim. alty joly 我三十歳に 北庭 まで 我出馬せり、六道に sunusdim ‥‥ su〕 sin qop olu〕rtim 〔anda〕icra- 我闘ひたり、彼の軍を 手痛く我潰したり、〔そこにて、〕 kina kisi tin 〔i?‥‥〕y joq〔bolda〕cy ar〔ti‥〕a 内にある‥‥人‥‥ 無となりて ありき‥‥ oqyγly kalti bisbalyq any ucun ozdy 呼びに來れり、北庭その為に 救はれき。 〔II E 28〕 右の突厥の北庭攻撃はマ氏(SS. 21-22)、ヒルト氏(S. 92)共に開元二年二月(西紀七一四)にかけた。其の事件と云ふのは、舊唐書突厥傳を引くと、 開元二年、遣其(默啜)子移涅可汗及同俄特勤・妹婿火拔頡利發・石阿失畢、率精騎圍逼北庭、右驍衛將軍郭虔[かん]嬰城固守、俄而出兵、擒同俄特勤、于城下斬之、虜因退縮、火拔懼不敢歸、携其妻來奔、制授左衛大將軍、封燕北郡王。 とある。此の比定は一見確實な如くであつて、其の總帥に移涅可汗・同俄特勤等が見えるけれども、右廂察默棘連の名は見えぬ。移涅可汗は暾欲谷碑のInal

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qaγanで(V. Thomsen, Turcica, P. 97)、默啜の子の小可汗である。此の小可汗と突厥右廂の總帥默棘連とは各々封地を有した諸侯中の尤なるものだから、それが伊涅可汗の節度に服し、突厥右廂の衆を率ゐて北庭を伐つと云ふことは異例である。然るに實は此の前年の開元元年(先天二年)には確に別の突厥の衆が北庭を席捲し、唐の援軍に遇うて退いた證據がある。即ち元和郡縣圖志(卷四十)隴右道庭州蒲類縣の條に 先天二年爲默啜所陷、開元十四年復置。 の一條が見え、先天二年突厥の侵寇は、遂に蒲類縣城を陥落せしめて、縣を廢させた程だつたのである。蒲類縣は北庭府の東木壘河方面だらうとは松田學士の説である(「天山北路に於ける唐の州縣に就いて」史學雑誌四二の六、p.69)。さうして此の突厥侵入の事實を傍證するのは、唐書(卷一〇五)緒[りょう]傳(舊書、傳を缺く)の記事である。曰く、 先天中、突厥圍北庭、詔[りょう]持節監總管諸將、破之。 これで見ると、突厥の北庭侵掠に對する征討が行はれた如くであるが、他の記録にはその事實は見出し得ぬ。兎に角、此の際の突厥が相當長く北庭方西を蹂躙したことだけは確實である。可汗が六道に唐軍と戰ひ之を破つたとある如きも、開元二年の北庭に於ける不名譽な敗戰(其將石阿失畢は默啜の處罰を怖れ唐に奔歸した如き)よりも、其の前年の相當期間に亙る攻略の成功に比定すべき證據ではないか。私は可汗卅歳の Basbaliq 攻撃を以つて、先天二年(西紀七一三)に於けるそれと斷定するを、より妥當と考へる。 扨て以上の議論に從へば、マルクワルト氏の設定した六個の規準年代即ち 1 十四歳‥‥ 西紀六九八 > 年齡差五年 紀年差四年(五年) 2 十八歳‥‥ 西紀七〇一及び七〇二 > 年齡差五年 紀年差四年(五年) 3 廿二歳‥‥ 西紀七〇六 > 年齡差九年 紀年差九年 4 卅歳‥‥ 西紀七一四 > 年齡差四年 紀年差三年 5 卅三歳‥‥ 西紀七一六 > 年齡差十九年 紀年差十九年 6 五十一歳‥ 西紀七三四 ---------------------[End of Page 五六五]---------------------

なる配列は廢されて、代りに 1 { 十四歳‥‥ 西紀六九七 又は十五歳 西紀六九八 > 年齡差五年(四年) 紀年差五年(四年) 2 十八歳‥‥ 西紀七〇一 > 年齡差六年 紀年差六年 3 廿二歳は 廿三歳の譌 西紀七〇六 > 年齡差八年 紀年差八年 4 卅歳‥‥ 西紀七一三 > 年齡差四年 紀年差四年 5 卅三歳‥‥ 西紀七一六 > 年齡差十八年 紀年差十八年 6 五十歳‥‥ 西紀七三三 > 年齡差二年 紀年差二年 7 五十一歳‥‥ 西紀七三四 なる別個の配列を得ることゝなつた。然らば、マルクワルト氏が、突厥人の年壽計算法が生日を基とすと考へた總べての根據は破碎せられ、寧ろ暦年更改を基としたと考ふべき結果に到達する。勿論これは突厥人が絶對に前の場合の計算法によらなかつた證據ではない。單にマ氏の論據を吟味すれば、かゝる場合を考慮する必要無しと云ふに止まる。けれども既に其の證據が失はれて見ると、少くも更に他の反證の現はれぬ限り、ヒルト氏や羽田博士が、突厥の文化系統から考へて、支那流の計算法に據つたのではないかとされる説に從ひ、突厥の年壽計算は支那と同樣暦年更改を以て一歳となしたのであると見倣すことが、一層妥當であるとすべきであらう。 それでは、上に論證した諸紀年以外の諸條は、果して此の考に證據を増すであらうか、若しくは別に反證を提供するであらうか。私は以下其の各紀年を年代を逐うて吟味する責務を有つと思ふ。 a. 八歳(II E 14) 〔‥aqanym 〕qaγan ucdu qda ozim sakiz jasda 〔我父〕 可汗 ?#123;ミマカリ給へる時に 我 自ら八歳にて qaltym ol toruda oza acim qaγan oturty. 在りき。其の統治の上には 我叔父可汗 上り給ひき。 骨咄祿可汗の?#123;年には異説が多い。既にヒルト氏が擧げてゐるやうに、通典・舊唐書突厥傳には天授中と ---------------------[End of Page 五六六]---------------------

し、唐書突厥傳には天授初とあり、司馬光の稽古録(卷十五)は之を天授二年秋に繋け、通鑑綱目は嗣聖十年秋九月としてゐる(Hirth, Nachworte. S. 91)。尚ほ通鑑は之を武后の延載元年(西紀六九四)に記してゐるが、これは其の年代の不明な所から、延載元年の默啜最初の支那侵掠、靈州入冦の條にかけたまでに過ぎぬ。また通鑑綱目の嗣聖十年説(西紀六九三)は、元來唐曾要(卷九十四)北突厥條に見える所である。併し其の記載は頗る混雜し、實稱ではない嗣聖十年、十一年、十二年等の年號を用ひてゐる(反武周思想の産物でなければ、或は何か特殊な年暦類に從つたのかも知れぬ)のみならず、其の中に嗣聖十年と同年なる長壽二年の項が挿入されてゐたりして、必ずしも信?#123;すべき記載とは見做し得ぬ。况して可汗の八歳はマ氏説によつても、六九一-六九二年だから、六九三年なる嗣聖十年説は信?#123;し得たとしても、單に磧北に於ける可汗の死が此の時唐に知られた年代であるに止まるであらう。事は必ず天授二年(西紀六九一)又は長壽元年(西紀六九二)の何れかになけれげならぬ。然るに通典・舊唐書共に天授中とし、稽古録には天授二年秋とあるから、正にこれこそ正確な傳へであるベきである。新唐書の突厥傳は格別な新資料を有つてをらぬから、天授初は天授中の誤記又は改字に過ぎぬであらう。 c. 十七歳(II E 24) Sakiz jigirmi jasyma tanut tapa sulidim tanut 十七の歳に 黨項にまで 我出馬したり、黨項の budunyγ buzdym oγlyn jo〔taz〕yn jylqysyn 族民を 我撃ちたり、彼の家の子・彼の郎從・彼の馬・ barymyn anda altym. 彼の?#123;度を そこにて 我奪ひたり。 青海省方面に據つてゐた黨項族は、貞觀四年以來唐に内附してゐたが、吐蕃強盛となるや、拓抜氏等の壓迫に堪へ得ず、遂に内徒を請うて、慶州(今の甘肅省 ---------------------[End of Page 五六七]---------------------

慶陽縣)に置かれ、其の故地は吐蕃に沒したと云ふ(舊唐書卷一九八、黨項傳、其他同傳)。内徒の年代は不明であるが、天寶十一載現在の奮唐書地理志には、慶州に静邊州都督府存し、吐蕃の西邊跳梁は高宗の儀鳳前後を最とするから、内徒は恐らく高宗時代と思ふ。尚ほ雪山の下に據つたと云ふ雪山黨項は、龍朔巳後吐蕃の攻むる所となつて臣屬せしめられ、西北邊(唐の?)に在つた者は天授三年内附して廿萬口に及び、朝呉以下十州を置き、靈夏州方面に散居せしめられたとも云ふ(舊唐書同傳)。天授三年内附の際、靈夏方面に入つたとあるのは、天寶十一載現在の舊地理志に見えず、幾分疑はしいが、兎に角今の甘肅の東南隅慶州邊外に據つてゐたことは事實であらう。默棘連十七歳の黨項侵掠は、勿論唐に内徒してゐたそれを指さなければ解釋が付かない。ヒルト氏は此の事實を通鑑綱目に見える長安二年(西紀七〇二)正月に於ける突厥の鹽夏州侵入に比定せられ(Nachworte s. 92)、マルクワルト氏は単に七〇〇/七〇一間の事件と見たに過ぎぬ(Die Chronologie ss. 16, 53)。併し前説はマ氏の七〇〇/七〇一年の何れにも相當しないから、採用され得ない。事件は別に七〇〇/七〇一年の間に求めなければならぬ。 通鑑によると 久視元年(西紀七〇〇)冬十月辛亥、以魏元忠爲蕭關道大總管、以備突厥‥‥十二月甲寅、突厥掠隴右諸監馬萬餘匹而去。 の一條がある。蕭關とは原州(甘肅省固原縣)にあつて、高宗の時地[牛健]縣が置かれ、神龍元年更めて蕭關縣が置かれた所だと云ふ(舊唐書地理志)。さうして原州には貞觀以來都督府が置かれ、慶州は其の領州の一であつた(舊唐書地理志、卷三八關内道)。魏元忠は久視元年(西紀七〇〇)原州方面に出兵して突厥に備へたのである。それは突厥が内地に侵入したのでなく、邊外の地を騒がした爲めに相違ないから、これこそ正しく慶州邊界の黨項族が突厥に蹂躙されたことを暗示する記事でなけれ ---------------------[End of Page 五六ハ]---------------------

ばなるまい。故に右は可汗十七歳の黨項侵掠が久視元年(西紀七〇〇)秋の事件である確證になり得るだらうと思ふ。 f. 二十歳(II E 25) 可汗二十歳の時には抜悉密族を征した。 jigirmi jasyma basyma basmyl yduq-qut uγysym 二十の歳の初に抜悉密 Iduq-qut (亦都護) 我族の budunarti arqys ydmaz tijim suladim. q 民なりし(に)、貢物せざる故 我出討したり、 〔‥‥〕m? icgirim. ‥‥‥ 我歸れり。 アルタイ北方に據つてゐた抜悉密への征戰は、最も退嬰的なりし武后時代の唐に知られる筈がないから、漢史には全く比定を求め難い。私共は全體の紀年よりして、此の可汗の廿歳を長安三年(西紀七〇三)と決する外無い譯である。 h. 廿六歳〔II E 26〕 alty otuz jasyma cik budun qyrqyz birla 廿六の歳に Cikの民 黠戞斯と共に jaγy boldy. kam kaca cik tapa suladim, 敵となりき、劔(河)を渡りてCik にまで 我出征したり、 orpanta sunusdim, susin san cdym, orpan に戰ひき、彼軍を我破れり、 az〔b〕u〔dunyγ alty〕m‥‥ Az の民を我取れり。(下缺) Cik, Az なる部族名は、可汗・特勤の兩碑には限らず、突厥碑文には屡々現はるるが、寡聞の致す所未だ漢史上之に比定すべき部族を知らない。唐努烏梁海地方に黠戞斯と共に據つてゐたらしい此の部族と突厥との交戰も亦唐史には何の徴すべきものがない。前條と同じく、これも可汗廿六歳即ち西紀七〇九(中宗景龍三年)に相當すべきである。之を傍證する者は、次の黠戞斯使節の絶えて久しき來朝である。唐書(卷二一七)黠戞斯傳には (貞觀二十二年)遣使者獻方物、‥‥高宗世再來 ---------------------[End of Page 五六九]---------------------

朝、景龍中、獻方物、中宗引使者勞之曰、而國與我同宗、非他蕃比、屬以酒、使者頓首。 とあり、册府元龜(卷九七四、外臣部褒異篇) には 景龍二年十二月丙申、〔宴?〕堅昆使于兩儀殿、就其家弔焉。 と見えるから、共の遣使は景龍二年末のことである。さうして黠戞斯の叛は、次年の突騎施と共に唐と何等かの聯絡があつた如くである。Bain Cokto碑(暾欲谷碑)は全然紀年を缺いてゐるけれども、其のI N 23-29に亙る黠戞斯討滅の記事は、ラドロフ氏やヒルト氏が骨咄録可汗時代の事件と考へたに拘らず、明敏なるトムゼン氏の洞察によつて瞭かな如く、それが可汗碑に於ける可汗廿七歳の黠戞斯征伐と同じ事實を述べてゐることは一點の疑の餘地も無い、(V. Thomsen, Turcica, o. 63 et suiv)。從つてそれは其の前年たる本條の可汗廿六歳の際に於ける黠戞斯の背叛の事實と連續するわけであるが、暾欲谷碑には其の背叛の起りを説いて左の如くある。 Der chinesische Kaiser war unser Feind; der Kagan der ,, Zehn Pfeile " (d. h. der Westturken) war unser Feind; ausser (dem) wurde der machtige Kagan der Kirgizen (?) unser Feind. Diese drei Kagane hielten zusammen Rat und sagten: ,, Lasst uns im Altun-Bergwalde zusammentreffen ", so hielten sie Rat:., Lasst uns vorrucken gegen ihn ziehen, so wird er unter allen Umstanden(?).. (Thomsen; Altturkische Inschriften aus der Mongolei, ZDMG, 1924. s. 165. ) Kirgiz 可汗の文は破損して讀めないが、三可汗が議して金山に兵を集めんと云ひ、此の三可汗合議の記事の次には、突厥の黠戞斯經略とそれに續く突騎施經略との記事があるのであるから、トムゼン氏の推測は必ず至當であると思ふ。さうすれば黠戞斯・突騎施の突厥に對する反抗が、唐と關係あることは疑 ---------------------[End of Page 五七〇]---------------------

無い(次條參照)。然らば景龍二年末唯一囘現はれる黠戞斯の唐への遣使入朝及び唐帝の之に對する厚遇は必ず無意味ではないのであつて、此の入朝の結果、黠戞斯は突厥に對する反抗運動を企てたと見ることは、決して不當ではあるまいと思ふ。此の故に、私は可汗廿七歳に於ける黠戞斯の叛を、景龍三年(西紀七〇九)の事件と考へる。從つて次年、可汗廿八歳の際に於ける黠戞斯經略は、之を翌景雲元年(西紀七一〇)に比定しなければならないのは勿論である。 i. 廿七歳〔II E 26-27〕 jiti o〔tuz jasym〕a qyrqyz tapa suladim, sunug 〔廿〕七〔の歳〕に 黠戞黠斯に迄 我出馬したり、槍の batymy qaryγ sokipan kogman jysyγ toγa jo〔ryp〕 高さの 雪を 分けて 曲漫山を 上り 越〔えて〕 qyrqyz budunyγ uda basdym, qaγanyn birla 黠戞斯の民を(眠りの中に)我襲ひたり 彼の可汗と (不意に、?) sona jysda sunusdim qaγan olurtim, Songa 山にて 戰へり 彼の可汗を 我殺し、 ilin anda altym. 彼の國を其處に我從へたり。 ol jylqa turgas tapa altun jysyγ asa 〔ar〕tis 〔toγa=I E 37〕 其の地(より?)突騎施まで 金川を越えて 曳咥河 uguzig kaca jory 〔dym, turugs budunyγ uda〕 を渡りて〔‥‥突騎施の民を(眠の中に?)〕 basdym. turgas qaγan susi otca buraca kalti 我襲ひたり、突騎施可汗の 軍 火の如く風の如く來れり、 Bolcuda sunusdimiz, qaγanyn jabγu〔sy〕n Bolcu にて輩戰ひたり、彼の可汗を、彼の葉護を sady anda olurtim, ilin anda altym. 彼の設を そこにて我殺せり、彼國をそこに 我取りたり。 マルクワルト氏は黠戞斯經略を景雲元年(西紀七一〇)又は其の翌年と見、突騎施經略を景雲二年(西紀七一一)に定めてゐるが、何等證據を持つ論斷ではない(Die Chronologie, ss. 3, 53)。恐らく黠戞斯討伐の際大雪を冒して進んだとあることから、黠戞斯討伐を冬の事 ---------------------[End of Page 五七一]---------------------

件と考へたが爲めであらう。 突厥默啜可汗の突騎施可汗婆葛攻殺は、通典卷一九九及び舊唐書突騎施烏質勒傳に、其の子婆葛の事蹟を述べ 景龍三年、娑葛弟遮弩恨所分部落少於其兄、遂叛入突厥、請爲郷導、以討娑葛、默啜乃留遮弩、遣兵二萬人、與其左右來討娑葛、擒之而還、默啜顧謂遮弩曰、汝於兄弟尚不和協、豈能盡心於我、遂與娑葛倶殺之。 とあり、司馬光の稽古録卷十五には景龍三年冬としてゐる。けれども、通鑑が之を開元三年末條に記し、考異に「竟不知死于何時、故附之」、と述べてある事から見ると、此の紀年も確證が無い譯で、殊に碑文の可汗廿七歳が七一〇/七一一を出で得ない以上、景龍三年(西紀七〇九)説は採擇するを得ない。然るに右の通鑑考異には、默啜の娑葛襲殺の條に「舊傳以為景龍三年事、按實録、娑葛既爲十四姓可汗、自後無娑葛名、但屡云突騎施守忠入朝、或者守忠即娑葛賜名邪、景雲以後、守忠猶在、又開元二年六月、阿史那獻奏、有龍見于北庭、爲鎭將妻馮言之曰、突厥(騎)施娑葛三年後破散、默啜八年後自滅、然則娑葛於時尚在也、竟不知死于何年」と見える。編者は開元二年の實録の記事を其の當時の話と考へたが、勿論これは後の作り話で過去の物證である。默啜の滅んだのは開元四年だから、其の八年前は景龍二年(西紀七〇八)又は景龍三年(西紀七〇九)でなければならない。故にそれより三年後は景雲二年(七一一)である。これはマルクワルト氏の算定と一致する。なほ考異に「景雲以後、守忠猶在」とあるのは、恐らく册府元龜卷九七〇外臣部朝貢篇に 景雲元年(西紀七一○)十月、欽化可汗突騎施守忠遣使來朝。 とあり、また同書卷九七一に 先天元年(西紀七一二)九月、突騎施守忠‥‥遣使來朝。 ---------------------[End of Page 五七二]---------------------

と見える如き、もと實録に記載されてあつた事實を指すのであらうが、かやうな名稱は其の餘當の籍用する事もあり得るから、守忠實在の確證とはなし得まい。たゞ前者の場合は守忠自身の遣使と考へてよいであらう。扨て然らば此の事件は景雲二年の事と決してよいかと云ふと、「北庭鎭將妻云々」の物話は恐らく單なる架空談としか思へぬし、又或は開元二年には既に行はれてゐた話とすれば、默啜滅亡以前の説話かも知れないから、三年、八年なる年數には尚ほ絶對の信用を置く事は出來ない。 唐大詔令集卷一三〇に収められた景龍四年五月十五日(景龍四年は六月唐隆に、七月景雲に改元されたものであって、景雲元年に同じ、西紀七一〇)の「命呂休[王景]等北伐制」には北庭都護呂休[王景]等を副大總管として金山道に赴かしめ、賀臘毘伽欽化可汗守忠等と默啜を征討すべき事を命じてをり、又朔方・凉州・靈州諸都督をして蕃漢兵を領し、守忠・休[王景]等と計會共に表裏をなさしめてゐる。其の文には 金川道前軍大使特進賀臘毘伽欽化可汗突騎施守忠、二庭貴緒、萬里聲威、‥‥志勤於中國、兼遣弟右監門衛將軍守節長驅沙漠、直指金微、默啜擧其種類來相拒、近殪於鋒鏑之下、巳如亂麻、遠?#123;於廟堂之上、將如破竹、堅昆在右[牛奇]角、而東並累獻封章、請屠巣穴、朕又聞不得巳而用者孰若兵機、不可得而遺者廼符人事、永言取亂、宜戎徂征、右領軍衛將軍兼検校北庭都護碎葉鎭守使安撫十姓呂休[王景]‥‥等並可爲副大總管、領瀚海北庭碎葉等漢兵及驍勇健兒五萬騎、金山道前軍大使特進賀臘毘伽欽化可汗突騎施守忠領諸蕃部落兵健兒二十五萬騎相知計曾逐便赴金山道、‥‥ 守忠は通鑑考異推測の如く娑葛の賜名であらう。册府元龜卷九六四、外臣部封册篇に 神龍二年十二月戊戌、命[オン]鹿州都督突騎施娑葛、襲父葛贊(質)勒、爲左驍衛大將軍兼衛尉卿懐徳郡王。 とあり、次に、 ---------------------[End of Page 五七三]---------------------

景龍三年七月、遣使持節策、授左驍衛(大)將軍兼衛尉卿金河王突騎施守忠、爲歸(欽)化可汗。 と見え、以後總て突騎施守忠の名により入朝してゐる。恐らく此の二つの記事の中間にあつたであらう娑葛金河王封爵の際、守忠の名を賜はつたものと見える。其弟守節なるものも、娑葛の弟にして默啜に投じた遮弩其人であるべき事も、自然に推測せられるであらう。舊唐書中宗紀によると、景龍二年十一月娑葛自立するや、弟遮弩をして塞を犯さしめたと云ふ。兄娑葛の爲めに兵馬を用ひる際の將であつたことを類推するに足らう。そして唐軍の出討は、此際起りつつあつた韋氏の亂と帝位の交替とによつて實現を見なかつたものと考へられるが、西紀七一〇年の五月には、既に突騎施可汗は公然突厥の默啜に叛旗を掲げてゐたのである。否、其弟守節をして將に漠北に出討せしめんとしてすらゐたのである。さうして之を機に、弟守節即ち遮弩が突厥默啜の下に投降したと見るのは、恐らく最も自然なる推測である。尚一歩を進めて云へば、「堅昆在右[牛奇]角」と云つてゐるが、堅昆の出討を促がしてゐないのは、或は突厥の黠戞斯經略が進行しつゝあつた消息を示すものではないか。何れにしても、唐の内難は突厥をして突騎施經略の絶好の機曾を與へたに相違なく、大略堅昆討伐は同年春で、突騎施經略は同年夏以後に推定してよいであらう。碑文の記事が、暾欲谷碑TIN29-T2 W43 の詳細な突騎施經略の記述に相當する事は、トムゼン氏の卓論がある(Turcica. pp. 93-98)。此の碑文によると、此の突騎施征討は、始め可汗(默啜)親ら出馬したが、可敦の死に遭つて歸り(TIN 30-31)、代つて Inal qaγan (默啜の子伊涅可汗)及び Tardus Sad (即ち默棘連)を總帥に任じたと記されてゐる(TIN 31)。そして此方には可汗は擒へ、葉護・設はそこにて殺せりと述べてゐるのは(T2W 41-42)、漢史の記載と一致するものであつて、可汗碑は其間に略筆が ---------------------[End of Page 五七四]---------------------

あると見るべきである。思へば此記事にのみ「我等戰へり」と複數を用ひてゐるのは、默棘連一人が總帥ではなかつた故であらう。 I. 卅一歳(II E 28-29) otuz artuqy bir jasyma qarluq budun bunsyz- 三十餘り一年に 葛邏祿 の民 束縛無く 〔ar〕ur barur arkli jaγy bol dy tamaγ yduq bas- 〔あり〕て 獨立して 叛きたり Tamaγ Iduq bas(聖象) da sunusdim. qarluq budunyzγ olurtim, anda にて我戰へり 葛邏祿 の民を 我殺せり、そこにて altym. 〔‥‥jasy〕ma? q〔‥‥〕 bud?〔・〕qarl- 我從へり〔‥‥(三十餘り二年に(?)‥‥〕 葛邏祿 uq budun tir〔‥‥〕m o〔lartim〕 の民集り ‥‥我〔殺したり〕。 マルクワルト氏は此 Iduq bas に於ける葛邏祿との戰を西紀七一五(開元三年)と見(Die Chronologie, S. 17)、又七一四/七一五の事件としてゐる(Ibid. S. 54)。併し此の事件は、瞭かに開元二年(西紀七一四)中の事である。 即ち通鑑考異、開元三年二月條に曰く 實録、(開元)二年九月壬子、葛邏祿車鼻施朱鉢羅俟斤等十二人、詣凉州内屬、乙卯胡祿屋闕(啜)及首領等二百十一人來降、十月庚辰、胡祿(屋)二萬帳詣北庭内屬、明年(開元三年)正月、突厥葛邏祿下首領裴羅達千來降。(册府元龜卷九七七、外臣部降附篇も同じ) 然も此等の諸部が葛邏祿所屬の西突厥部衆であつたことは、次の詔に明かである。册府元龜(卷一七〇、帝王部、來遠篇)に曰く、 (開元二年十一月丙申)、詔曰、北狄爲患、南牧是膺叛而伐之、服而捨之、春秋格言、是謂通典、葛邏祿陰山都督部落、驕天繼毒、候月爲妖、桀驚之心久矣、?#123;從之禍深矣、而冒其携阻、思我恩化、來七旬而就格、逾萬里而歸誠、啓[桑頁]邊陲、披肝塞下、宜令左散騎常侍解[王宛]攝御史大夫、持節往北庭、宜慰突厥部落縁邊降戸、要在便宜處分。 とあり、北庭に安置せられる事となつたらしい。翌三 ---------------------[End of Page 五七五]---------------------

年四月には、恐らく更に葛邏祿の別衆が唐に歸した。 册府元龜卷一七〇、帝王部來遠、卷九七七、外臣部降附に (開元三年)四月乙卯、三姓葛邏祿首領率衆歸國、璽書慰之、曰三姓葛邏祿首領散爛俟斤等、冒渉遠來、並平安好、卿等被驅率、多歴歳年、遂背逆輸忠、間行歸國、言念誠節、嘉賞良深、縁被部落初來、巳令逐便安置、云云。 とある。そして同月庚申には、葛邏祿の新附の爲め邊境虞あるを慮り、薛訥・郭虔[カン]を凉州・朔州に鎭せしめた(册府元龜卷一一九、帝王部選將篇)。 碑文卅一歳に於ける Iduq bas の戰は、恐らく葛邏祿第一囘の投降(開元二年九月)を結果付けたと思はれる。翌年四月の投降は、更に其次の缺落の多い記事に見える葛邏祿撃破によるものであることは、疑無い。トムゼン氏は、此の缺落の部分に、三十三歳なる文字が存したと推測してゐるのは、確證の存しない所ではあるが、さう見ることも差支へないかも知れぬ。併し開元三年四月の投降は開元二年内の突厥の經略の結果としても何等不都合はないものである。 m. 年代不明(Toquz Oγuz の叛) Qarluq 討伐の記事に續いて、Toquz Oγuz の叛が記されてゐる。蓋し此等の事實は、唐史の「自恃兵威、虐用其衆、默啜既老、部落漸多迯散」(通典卷一九八)なる形勢に相當すべき事は云ふ迄もない。Toquz Oγuz 即ち鐵勒九姓の叛については、碑文の記す所甚だ長文に亙るから、今其一々を掲げない。たゞ其要を摘むと「九姓が叛くや、一年に默棘連は四度之と戰つた。第一は Toγu-baliq に於いて、第二は Andurγa.?. に於いて、第三は Cus-basi に於いて、第四は Azgandi-qadaz に於いてであつた。然るにmaγa-qurγan に冬籠りしてゐた際、 Oγuz の軍の襲ふ所となり、寡勢を以つて苦戰し、遂に神祐によつて之を却け得た。かくて後、默棘連は進んで九姓を伐つて其住居を破壊 ---------------------[End of Page 五七六]---------------------

し、更に Oγuz と Toquz Tatar (九姓室韋)との聯合軍を Aγu に於いて撃破した」(II E 29-II E 34)と云ふ内容であつて、次が可汗の即位即ち三十三歳開元四年條に續くものである。 Toγu-baloq が恐らく安北都護府故城であり、 Maγa qurγan が唐會要卷七十二諸蕃馬印に鐵勒九姓の阿跌部の住地として見える莫賀庫寒山に比定出來さうな外、他の地名は總べて明かでない。たゞ此戰が最初の四つは同一年の事であり、他の Maγa qurγan 以下の戰は其の翌年の事であるべきはマルクワルト氏推測の如くであり(Die Chron. s. 21)、又第三の Cus-basi の戰後 Tona Tagin の葬が行はれたとあるから、此等の戰は開元二年(西紀七一四)中であらうと見るマ氏の考も恐らく正しいであらう。(Ibid. s. 21)(Tona Tagin は即ち開元二年二月北庭に戰?#123;したる默啜の子同俄特勤である事に疑ない。突厥の俗は人春に死すれば秋葬るを例とすると云ふ。故にマ氏は此葬を其秋とした)。故に前の場合は、可汗三十一歳開元二年(七一四)なるべく、後の場合は、可汗三十二歳開元三年(七一五)でなければならぬ。 o. 卅三歳(九姓の唐歸降)(II E 35-38) toquz oγuz budun jirin subyn ydyp tabγacγaru 九姓 の民 其土其水を捨てゝ 唐へ附きた bardy tabγac〔‥‥〕 bu jirda kalti. igidajin tijin り、唐〔‥‥〕 此地に歸れり、復するために 〔‥‥bi〕rija tabγacda aty kusi joq boldy bu 〔‥‥〕南の唐にて 彼名、彼譽 なくなりたり、此 jirda mana qul〔‥‥〕boldy manozim qaγan olu 地にて 我に〔‥‥〕となりたり、我自ら 可汗に rtu qym ucun turk budunyγ 〔‥‥anda sunu〕 上りし故に 突厥民を 〔‥‥そこにて我戰へ sudim susin san cdym icikigima icikdi, budun り 彼軍を我破れり、一部は(降る者)降りて、民となりた boldy olugima olti salana qody jorypan ‥‥ り、他は(死ぬ者)死したり、仙萼(河)を下り行き ‥‥ barqyn an da buzdym 〔‥‥〕jysqa aγdy ujγur 彼住居をそこに破壊せり、〔‥‥〕山に上れり、囘鶻 ---------------------[End of Page 五七七]---------------------

al〔ta〕bar juzca arin ilga〔r〕u ta〔zip bardy?‥‥〕 頡〔利〕發百許りの人 東へ 逃〔れ行けり‥‥〕 turk budun ac arti. ol jylqyγ alyp igitim. 突厥の民飢えありき 其馬を取り復しぬ。 九姓投降の事實は、既に羽田博士によつて紹介きれた如く、開元三年十月九姓思結都督磨散等の投降(册府元龜卷九七四)と開元四年默啜襲殺の結果、囘鶻同羅[ショウ]抜曳固・僕固等が來降して大武軍の北に置かれた事實とである(「九姓囘鶻とtoquz Oγuzとの關係を論ず」東洋學報 IX, pp. 37-39)。併し乍ら前者の場合は思結以外の酋長は斛薛・匐利羽・延陀・奴(刺)頼・[足來]跌等九姓以外の小部族に過ぎないのであつて(册府元龜卷一七〇)、それは恐らく可汗卅一・二歳の九姓叛起の影響とは思はれるが、碑文に記される様な大事件とは思へないし、可汗の生卒年より數へられろ可汗卅三歳の年代には如何にしても入り得ない。問題の投降は必ず默啜の死後、毘伽可汗即位前後の事件でなければならぬ。從つてこれは開元四年六月默啜を斬つて唐に内府歸降し、朔州の大武軍北に置かれた囘鶻・抜野古以下の五部であるに相違なく、可汗卅三歳の此の事件も亦開元四年(西紀七一六)に比定せらるべきものである。 p卅四歳 九姓との戰の次に記きれる卅四歳の事件仍皮栅韦稀ⅰ溉Nり四年 Oγuz 逃れて唐に入れり云々」(E 38)とあるのみで、以下は缺落して、其の記する所は不明である。可汗三十四歳即ち開元五・六年の間に於て、九姓の投降ありと云ふ唐の記録は求める事は出來ぬ。思ふに、既に河東の邊外に安置せられた九姓に對し、更に來降加入はあつたとしても、唐の記録はそれを傳へないだけに留まるであらう。たゞ開元五年七月九姓鎭禦の為め太原に天兵軍八萬人が置かれ(册府元龜卷九九二)、六年蔚州横野軍を山北に徒し九姓の援をなし、天兵軍の節度を取り、九姓の兵と共に討逐探候を命ぜられてゐる(册府元龜卷九九二)のは、隆戸の増加を語 ---------------------[End of Page 五七八]---------------------

るものかも知れぬ。 q・r・s 年代不明 可汗卅四歳の記事よ一り以降、 II E 39 - II S 1 に至る記載は、最も脱落多く断片的で、紀年の比定は困難である。今トムゼン氏の譯文を掲げると(新譯には省略する)、

des expeditions [‥‥]fois. (V. Thomsen, Inscription de l'Orkhon dechiffrees, pp. 127-129) 右は前に表記した如く今知らるゝ限りでは三つの事件とする事が出來る(一)は Tataby (及び Qitai ?)との戰に關するもの、(二)は葛邏祿との交渉、(三)はII SE 及 IIS1 に亙る唐との交戰らしい記事である。

第一の記事中 Tataby 即ち奚が唐に降れりと云ふ事實は、開元四年九月契丹王李失活、奚王李大輔が所部を以て來降せりと云ふ事實(通鑑、及元龜、九六四、九七七)に相當すべく、從つて碑文中の”〔‥‥〕ta〔tab〕y budun tabγacqaγanqa korti(奚ノ民唐皇帝ニ降レリ)" なる文の Tataby の前には qitai budun なる語があつたと見るべきであり、更に其前の "iki altabirlig budun(二頡利發アル民) "とあるのは、マルクワルトの解した如き奚及び葛邏祿の兩部族を指すのでなく(Die Chron. s. 27)、契丹・奚の兩蕃を意味すること疑無い。從つて其次に記された征戰はマ氏の解する如く、奚のみに對する征戰でなく、 Qitai, Tataby 兩者に對するものであらう。Kadirkan jys は常に突厥と奚・契丹との境界として現はれ、今の興安嶺を指すことは云ふ迄もない。扨て突厥の奚・契丹に對する侵入は、唐史の上に何等明文を存しないが、それが夏であつたことは文中に明記されてゐる。開元六年六月契丹の松漠郡王李失活卒するや、玄宗は其強酋可突干に書を降してゐるが、册府龜卷九九二、外臣部備禦篇に牧められた其書には (上略)近得捍蕃使薛泰表、云、突厥殺兒到大[名隹]、揚言萬衆、欲抄兩蕃、云々。 の句が見える。薛泰は開元四年契丹來降して松漠府が置かれるや、押蕃落使となり軍を督し、その鎭撫に當つたものである(唐書契丹傳)。殺兒は小殺即ち突厥毘伽可汗の俗名に外ならぬ(其例は開元六年二月の「北伐突厥制」、張説の「論幽州邊事」に明かなり)。即ち開元六年五、六月の頃には、突厥は將に契丹・奚を抄せんとしてゐたのである。碑文の征討が ---------------------[End of Page 五八〇]---------------------

夏である事を思ひ合せ、私は碑の Qitai, Tataby 征伐が開元六年(西紀七一八)夏、即ち可汗三十五歳の事件と考へる。マルクワルト氏は之を開元八年(西紀七二〇)に比定し、可汗三十六歳の時と見てゐるが(Die Chronolog. S. 27, s. 54.)これは開元六年二月に出された所の、朔方大總管王唆をして抜悉密・奚・契丹等と計曾し、翌秋を待つて突厥を襲ふべき密詔の年代を誤つて八年とし、突厥の奚・征伐は此の詔の下された結果と考へたからに外ならない。 次の葛羅祿に關する記事は、自分は未だ漢史に該當すべき事實を見出さないが故に、姑く之を開元六年乃至七年の事件と見ておく。然るに次の唐との交戰は明白に開元八年(西紀七二〇)の事件であることは、マルクワルト氏推測の通りである(Die Chronol. ss. 27-28)。蓋しIISEに見える kcn なる地名は必ず kacin 即ち河西であつて、それは舊唐書本紀に (開元八年)秋九月、突厥欲冦廿源(凉?)等州、凉州都督楊敬述爲所敗、掠契[必]部落而歸。 とある河西侵掠の事實に相違ない。元朝秘史が西夏を合申と呼んでゐるのは、瞭かに突厥語と連絡を持つ者である。尚一九二六年 Kotwics, Samoilovitch 兩氏によつて公にされた Ikhe-Khuchotu 突厥碑文(主人公が毘伽可汗と同時代の右廂の大酋 kul(ig) cur である事は Kotwicz 氏論證の如し)に kcn を伐ち Besbaliq を攻めた事が見えるのは、右の開元八年の凉州侵略に相當しなければならぬ、(Rocznik Orjentalistyczny Tom IV. p. 105 但しサ氏は kcn を kacin 又は kacun と讀んでゐる〔p. 107〕)。從つて恐らく IIS 1 の記事は可汗の凉州侵略と北庭攻撃とを併せ記してあるのであらう。斯様な譯で、年齡を缺いた三事件の紀年は(1)卅五歳(開元六年西紀七一八)奚・契丹征伐、(2)卅六歳?(七一九?)葛邏祿征伐、(3)卅七歳(開元八年秋、西紀七二〇)河西侵入北庭侵掠、に比定する事が出來ようと思ふ。 t・u 卅八歳・卅九歳 IIS 2

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otuz artuky sakiz jasyma qysyn qytai tapa sula- 三十餘り八年 冬契丹に迄 我出馬 dim〔‥‥otuzartuqy toquz jasy〕ma jazyn tataby せり、〔三十餘り九〕年春 奚 tapa su〔ladim‥‥〕 にまで 〔出馬したり〕〔下快〕‥‥ 可汗卅八・九歳に相當すべき開元九・十・十一年間に於ける契丹の情勢は、自分には未だ漢史の上に從ふべき記載を見出し得ない。私は姑く之を開元九年(西紀七二一)冬と開元十年(西紀七二二)春とに擬するに止めておかう。 扨て、以上極めて粗漫なる叙述の結果を顧みるならば、可汗の年齡は西紀六八四年に生れ、西紀七三四年五十一歳を以て?#123;したのであつて、其間の事蹟を記した毘伽可汗碑文の諸紀年は、少くとも漢史との對比の可能なる範圍に於いては、暦年の更改による年壽の數へ方に合致し、之を生誕の日附を基にすべしと主張するマルクワルト説は毫も根據のないことが明瞭となつた。果して、此の結果が將來出現を期待すべき他の突厥碑文に於いて、更に確實なる證據を増すや、或は却つて其の反證があがるやは、固より之を今後に待たなければならない。唯碑文の記載と漢史との比較が或る程度まで可能であり、又碑文の記述が大體に於いて正鵠を得たものであり、又少くも毘伽可汗碑の紀年による限り、突厥の暦法に關する知識は、之を支那繼受に歸すべきことが幾分瞭かになつたとすれば、本稿の目的は足りた譯である。

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參考文獻 alty cyb Soγduqは六姓昭武というよりは、六州胡だという話は →クリャシトルヌィ「ソグドとテュルク」 "Древнетюркские рунические памятники, как источник по истоии Средней азии" 1964年 ※これについては、護雅夫「エス=ゲー=クリャシュトルヌィの突厥史研究」(『古代トルコ民族史研究I』に収録。初出は『史學雑誌』第74巻第11號。若干加筆修正されている)に詳しく解説されている。 Cikは麹ではないか、という話は →森安孝夫「チベット語史料中に現れる北方民族-DRU-GUとHOR-」(アジア・アフリカ言語文化研究 No.14 1977年) に「その詳細についてはいずれ別に論ずるつもりである。」とあるが、それはどこか知っている人教えて下さい(汗)。 テュルギシュ娑葛が父・烏質勒から受け継いだ称号などは →内藤みどり「烏質勒の死と娑葛」(『西突厥史の研究』1988年) 遮弩の裏切りによって娑葛が捕らえられ、テュルギシュが敗れた戦については →内藤みどり「景龍2年の東突厥の突騎施征伐」(『西突厥史の研究』1988年) 対バシミル戦については →内藤みどり「突厥による北庭のバスミル攻撃事件」(『東洋学報第81巻第4号』2000年3月) ビシュバリク攻略戦については →内藤みどり「突厥カプガン可汗の北庭攻撃」(『東洋学報第76巻第3・4号』1995年3月) キルギス遠征については →大澤 孝「8世紀初頭のイェニセイ・キルギズ情勢-バルス・ベグの出自と対東突厥征伐計画をめぐって-」(『史朋28号』1996年5月) kcnは河西でなく、姑臧であるという話については →内藤みどり「突厥キョリ=チョル考」(『内陸アジア史研究13』1998年3月) 文字の転写について 岩佐精一郎について (HOME 02-11-2005 11:17 AM)